2011年6月28日火曜日

ある元朝日新聞原発担当記者の回想

@aritayoshifu 様。その直前の証言です。ご参考まで;《ある元朝日新聞原発担当記者の回想》

 長年、いつか来るのでは、と恐れていた原発の大事故になってしまった。最前線で命をかけて頑張る作業員や、汚染地域で不安にかられながらも避難所や自宅で屋内退避している住民に心配を寄せるしか出来ない己の無力さに言葉無し。せめてかつて一時ではあるが、”原発記者”だった自分が、なぜ朝日新聞が原発の危険を訴える報道から退いて行ったか、一時期を知っている者として僅かではあるが知るところを記す。

 今から30年以上前だったか、ちょうど各地で原発ラッシュが始まるころだった。「イエス、バット」で条件付建設を推進しようと社説などで掲げる社に対して、全国の原発候補地では圧倒的に反対の動きを伝える紙面を展開していた。

 これに業を煮やした社が、有楽町の旧社屋時代に、全国の担当記者を集めた業界としては初めてだった「原発記者研修」を開いた。確か3日間だったか、 当時の木村科学部長が窓口となって、東海村の視察にも行き、自分は独身ということで代表としてただ一人、炉心にも入った。なんの危険性も疑わずに。その後、チェルノブイリ事故の時にも、支局の同僚が特派員として現地に行ったが、その彼も当時、子供が2人だったかいて「もう、いいだろう」と社から念を押されていったものだ。つまりこの頃迄、社も「原発は危険かもしれない」という認識を十分持っていた。

 研修の初日に、当時の編集担当だった秦 正流・専務が開口一番「記者は社論に従って記事を書けばいい」と発言。出席者騒然となり、「反対運動を報じるなということか」等々、開会早々、研修会が中止になりそうになった。

 今の新聞社では考えられないほど、取材と記事に関しては記者個人個人が紙面づくりの責任感、使命感、社会悪を許さない正義感が強く、どんな上司や言論人としての大先輩であっても対等に論争を繰り広げたものだ。それが週刊誌にも報じられた。

 記者たちは「条件付賛成」に頭ごなしに反対していたわけではない。「トイレなきマンション」といわれるように原発から出る放射能汚染物質、それも100年単位の長期間にわたる汚染物質の処理方法も確立していない(ドラム缶に入れ、コンクリートで固めて、地中に埋めるだけ)ものを、未来を託する子々孫々にまで美しい地球を取り返しのつかない環境破壊を与えないで引き継いでいけるかの安全性が保障されることが必須条件だった。

 しかし、原発候補地での国や電力会社のPR活動といえば、「馬の鼻面にニンジン」をぶら下げたようなもの。若者の少ない貧しい過疎地の漁村に白羽の矢を立て、財政難の地元の市町村にはヨダレの出るような「協力金」を餌に、「札束でほおを引っぱたく」といったやり方がまかり通っていた。一般人には理解しようのない原発を「ばら色の未来」を生み出す、打ち出の小槌のように思い込ませていった。

 遊んだことのない純朴な住民を、街中のキャバレーやクラブに連れて行きドんちゃん騒ぎのあげくに、お土産つき。それが当たり前となり、長距離を送迎するタクシーの運ちゃんが「電力会社の接待は、車の中でゲロをはかれて」とうんざりするほど。

 「どんな天災がきても何重にも安全策を講じている」「万万が一の大事故なんてありえない」「100%大丈夫」と甘い言葉を並べ立ててきたのが実情だ。

 イタイイタイ病などの4大公害病はじめ日本公害列島といわれた。その過程で、役所や企業は都合の悪いデータをひた隠し、捏造、改ざん、廃棄など当たり前。さんざん、そういうことを取材で実体験してきた。

 もちろん紙面でも、さんざん書いてきたが、読者の反響が限られていたのも悲しいかな事実。目先の欲、甘い汁につられて動いた人も多く、「どんなに頑張っても、読者レベル以上の紙面は作れない」と嘆きもした。すでに新聞は自分たちが思っているほどの力は持っていなかったのだ。また、「反原発」の原稿に力を入れた諸先輩が決して優遇されないのを後輩・新人記者達は目の当たりにみて育った。なんせ「3人集まれば人事の話」というぐらい、人事の好きな社風、下手に者の方針に逆らうよりは、当たり障りの無い発表記事が次第に増えて行った様におもえる。

 それから約30年近く立った今、ごらんの通りの「大本営報道」のみが繰り返されている。私は数年前に定年退職したが、正直言って記者生活の終りに近づくにつれ、「社会をよくしようと思っているヤツなんかいるわけない」と出世がすべての人間が増えた。

 記事の価値判断も出来ず、原稿にまともに手も入れられず、もちろん修羅場をくぐる本当の取材のノウハウを知るわけもなく、従って若手後輩に教える能力もない人間に、まともな紙面が作れるはずはない。

 正直言って、自分もあまり新聞を読まなくなった。特に自分が居た会社の新聞を読むのはつらい。かといって友人がすすめてくれたインターネットだのツィッターもとりつきにくい。しかたなく目をざっと通すが信じはしない。

 頼むから、新聞よ、もう少し、私が死ぬ迄しっかりしてくれないか、といいたいのだが、いや、ろくな新聞社にしなかったのはお前も責任があるだろう、と言われたら一言もない。愚痴になりそうなので、ここまで。読んでくださった方に感謝する。
 
 なお、上記のような実態の証言として、当事、北国新聞の編集局長の原発で働いていた愛息が、被爆事故で失った父親が、真実を暴くべく出版した本も持っていたが、みつからない。新聞社の原発取材の手引きや資料、原発関係の本だけでダンボール2箱以上はあったと思うが、本は寄贈した大学にあるかもしれないが、新聞に見切りをつけた時にすべて処分してしまった。あの本を紹介できないのが残念。

(友人で関西在住の元記者、@tkgysnb の証言)
http://tinymsg.appspot.com/31p1

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