2011年7月19日火曜日

「医師が見た被爆者の生と死~原爆被害、隠蔽と放置の12年間~」

被爆体験聞き書き行動第1回実行委員会

とき  2000年09月09日
ところ コーププラザ浦和
日本被団協中央相談所理事長 肥田舜太郎先生

1.はじめに

 こんにちは。肥田舜太郎という医師です。今日、初めてお目にかかる方もきっといることと思いますが、ご紹介いただいたように55年前、28才で陸軍病院の軍医をしていて原爆に遭い、戦後も引き続いて主に原爆被爆者の診療や相談をしてきた数少ない医者の一人です。いろいろ困難を抱える被爆者の相談に応じて、何とか被爆者の役に立つように、今日まで過ごしてきました。 私が何故、こういう医師の道を歩いたのか、何がそうさせたのか、振り返ってみますと、被爆者の、説明の仕様のない死に様に次々とぶつかってきた。今でもまだぶつかっているわけですが、その度に深く考えさせられ、現在の医学、医療では解明できない、治療法もわからない原爆病と縁の切れない医者が出来たのだと思います。

 今日は、被爆後から10年くらいの、最初の頃の話をしてほしいということで、ご依頼を受けた時から、何を話せばよいのか随分考えたのですが、私が、特に死んでいった被爆者にぶつかって、その度毎に自分が感じたことを振り返りながら、被爆とか、原爆とか、核兵器廃絶という問題を私がどう考えるようになったかということなども含めて、お話したいと思います。

 妙な話をしますが、私は32才の時、初めて生命保険に加入するよう勧誘されました。人の命を種に金儲けをする生命保険という会社が私は大嫌いだったので入らなかったのですが、勧誘した人が、その時に加入すれば私が83才の時には満期で幾ら幾らもらえるとか話したのが頭に残っていて、その時から自分の命は満83才までという考えが、なんとなく頭にこびりついてきました。

 今年がちょうど満で83才なので、どうも終りが近いらしいと感じたのかも知れません。勿論、それだけが理由ではありませんが、思いきって自分史というものを書き始めました。被爆の前、被爆した時のことは前にまとめたことがあるので、今度は、戦後、被爆をしてからのことを書いています。そうしたら、人には言えないような恥かしいことや、いろいろな難しいことも含めて、戦後四十年ぐらいまで書いてきて、自分をこうした人生の道に誘った節目には、何人かの被爆者の印象に残る死が関わっていることに気がつきました。

 そういう意味で、ちょうどいいタイミングで今日のお話の依頼を受けましたので、そういう切り口でお話をはじめたいとおもいます。


2.爆風と熱線による死

 私が一番、最初に被爆者の死にぶつかったのは1945年8月6日、原爆投下の1-2時間後でした。私はその日の早朝、たまたま6キロ離れた戸坂という村の農家に往診に出ていて被爆しました。藁葺屋根の農家は潰れましたが、火傷も怪我もせず、壊れた農家から這い出て、きのこ雲の立ち上る広島市内へ引き返しました。太田川の川沿いの道を、市内までちょうど半分のあたりで、市内から逃れてきた最初のその人に会ったのです。

 遠くから見た時は、 人間だと思いませんせした。近くで見ても人間には見えませんでした。真っ黒に焦げたドロドロの肉の塊で、腫れあがった大きな目と、口が顔の下半分の恐ろしい形相。それが私に手をのばして、目の前でばったり倒れました、あっ、人間だったと思って、近寄って「しっかりしてください」と言ったのは覚えていますが、あとは声もでなかった。脈をとろうとしましたが、手首には皮膚がない。この人、ぼろを着ていると思っていたら素っ裸で、剥がれた皮膚がぼろのように垂れ下がっているのです。おろおろしているうちに、ぴくぴくっと痙攣して、うごかなくなりました。それが私の見た最初の被爆者の死でした。

 猿喉川(広島市内を流れる太田川の七本の支流の一つ)の工兵橋、ここから先が市内というところまで行って、河原といわず、道路といわず、焼け爛れて、倒れている者、座っている者、死んでいる者、川を流れて行く者、どこを見てもまともな人間の姿は在りません。最初に感じたのは恐ろしいとか気の毒だとかということではない。感じたのは、無力感です。医者として自分にはすることがない。医者だから何かしなくてはならない。薬はありませんでしたが聴診器を当てるぐらいのことは出来たわけです。だけど何をしていいか分からないわけですよ。そんなことで間に合うような人は一人もいないわけですから。正直に言うと、どんどん死んでいく大群の中でぼんやりしていました。川へ飛びこんでは流されていく、その川の中に突っ立ったまんま、何にもしないでその様子をボーッとただ見ていました。軍医だから病院へ帰る任務がある。けれど火で市内には入れない。うろうろ迷って立っていました。

 そのうちに自分を説得して、こんなところにいてもしょうがない。この人たちはみんな村へ逃げるから、村に戻れば何か出来るに違いないと思って、手を合わせて詫びるように拝んで、戸坂村へ引き返しました。

 村の中はもう被災者でいっぱいでした。戸坂村でも大部分の家は爆風で壊れていますから入るところがない。乾いた道路とか農家の軒先の空き地、学校の校庭や役場の広場、乾いた土のあるところに被災者が転がって寝ています。後から来た被災者は、寝ている被災者、死んでいる人の上を乗り越えて奥へ行こうとしています。何といいますか、地獄としか言いようがありませんでした。

 次から次へ負傷者が村へ入ってくる。後で調べたら3万人入ったそうです、人口が約1800人という小さな村ですから入るところがありません。みんな乾いて地べたへ転がっていたわけです。

 一番、最初にやったことは治療ではなくて、食事を与える準備でした。私は軍医学校で戦地での軍医の仕事を習った時、「一度に大量の患者を収容したときは治療よりも先ず食事のことを考えろ」と教えられました。村長以下、村の幹部に命じて、村に疎開させてあった陸軍の米を出させ、むすびを沢山作らせました。ところがこれが失敗だった。顔が焼けただれて、むすびを食べられるようなのは一人もいない。それで慌てて、むすびを鍋に戻してグツグツ煮てお粥にしました。

 村民はその日、早朝から中学生以上が男女とも広島へ招集されていて、老人と小学生だけが村に残っていました。それで小学生を集めて、上級生の男の子二人にお粥を入れたバケツを持たせ、女の子にしゃもじを持たせて寝ている者の口にお粥を流しこむことから初めました。

 夕方頃、軍医が3人来て、私と一緒に応急手当をはじめました。今から思えばとても手当なんて言えるものじゃありません。乱暴そのものです。ガラスが方々へ刺さっている。三角に割れたガラスが、尖った方を先にして皮膚の下をクルッと回って刺さっています、それを狭い入り口から抜き取るのは大変な仕事です。切れた傷口は縫わねばなりません。道具がなく、一時は縫い針を火で焼いて、ヨ-ドチンキにひたした絹糸を通し、ヤットコ で挟んで縫合しました。

 どんどん死んでゆきます。一目見て、火傷がひどく、大怪我をしている者で死の近いものは一目で分かりますから、助かりそうもない人は避けて通る。今から思うと、医者として一番間違ったことでした。複数の患者に出遭ったら重傷者から治療するのが医師の倫理です。それを重傷者は目を逸らせて軽そうな人を選んで歩きました。

 そんな中で一人、目を逸らせ損なった兵隊がいました。私を必死に見つめるその人と目を合わせてしまい、思わずその人の傍らに膝をつきました。地べたにじかに倒れていました。ボロボロに破れた軍服のズボン、上は裸です。焼け爛れて呼吸も苦しそうでした。何もしようがない。顔を見ると左の頬だけが白く焼け残っていました。何となくそこへ私の手をもっていって、そっと触れたんです。そうしたら、カーッと目を光らせて見ていたのが、目の光がスーッと柔らかくなって。優しい人間の目になったんです。そしてカクンと頭が落ちて息が絶えました。私が手を触れたのが慰めになったのか、とにかく人間らしく死んだ、私にはそう思えた。今でもその時の夢を見ます。人間でなく、捨てられた物のように、無数の被爆者は死んでゆきました。


3.急性放射能症による死

 私たちが目を逸らせた重傷者は2―3日のうちに大半が死に、あとは、治療すれば助かると思えた負傷者で、これからは医者の働きどころと、多いに張り切った矢先に、生き残った負傷者の中から、不思議な症状の急病が出はじめました。

 熱が出とからと呼ばれて行って見ると、ポッポと汗を出している。四国の部隊から応援に来た軍医が体温計を持っていたので、それを借りて測ってみると5分計で1分も経たないうちに39度にあがりました。発熱なので口の中を見ると扁桃腺やその回りが真っ黒に壊疽をおこしている。普通、風邪などでは扁桃腺は真っ赤に炎症を起こすのが、真っ黒に腐りはじめている。身体の組織が生きながら腐って死んで行く病気です。傍にいたたまれないほど臭い匂いが特徴です。そのうちに、瞼の裏や鼻や口から血が出はじめた。何の血だろうと考えているうちにワーッと血を吐かれた。びっくりして、よく見ると火傷していない白い肌に紫色の斑点が出ている。死んでいった被爆者と同じです。そのうち苦しがった患者が頭に手をやったら、触れたところの髪の毛が取れてしまった。高熱、口中の壊疽、出血、紫斑、脱毛という、教科書にもない症状です。医者の誰一人も経験したことのない症状がでて、早い者は数時間、遅い者でも数日のうちに死んでしまいました。

 この爆弾は火傷と大怪我で人が死ぬだけでなく、ピカに当たった人はこういう病気のこういう死に方をするんだということを、医者だけでなく、被爆者もみんな3~4日の間に経験したわけです。「血がでて、毛が抜けたら駄目」。みんながそう思いました。これが後に分かった急性放射能症です。普通、内臓の病気は心臓とか腎臓とか肺臓とか、一つの臓器が病気になるのですが。ピカの強烈な放射線で多くの臓器が同時にやられてしまう。多臓器の同時発病という今までに医者が経験のしたことがない発病の仕方でした。しかし、そんなことも 10年も20年も経って分かったことで、当時は全く原因が分からなかった。こう言う死に方が被爆の年の暮れまでずっと続きました。


4.残留放射能による死(低線量放射線障害)

 ところが、当日は広島にいないで、直接、原爆に遭っていない人の中から、被爆者と同じ症状の病気になり、死ぬ者も現れて、私たち医師を動転させました。

 被爆の翌日から広島市内には肉親や知人の安否を尋ねる人たちが、ぞろぞろ焼け跡を歩きはじめました。瓦礫の原を、骨や生焼けの肩や半分崩れた頭蓋骨の上を踏んで歩きます。そのうちに、「負傷者はもし生きていたら、近在の村々に収容されている」ということが分かり、私のいた戸坂村にもこういう外来者が毎日、多数訪ねてきました。

 この頃には九州や四国の軍隊から多数の軍医や看護婦が薬や器材を持って応援に来てくれ、戸坂村にも医師の数は私をいれて29人になり、看護婦も100人近くになりました。しかし、総計で3万を越えたといわれる在村患者には、間に合うどころか手も足も出ない有様だした。この頃には小学校の校庭や役場の広場や大きな農家の前庭などの空き地に筵を敷き詰め、その上に日除けのよしずを張って直射日光を防ぎ、それが病床で、負傷者を寝かせていました。

 そんな中を尋ねてきた人が大きな声で「何々さーん」と大きな声で名を呼んで歩く。顔が焼けていて見分けがつかない者が多いので、名前を呼んで探すのです。稀に巡り会える者もいるし、「○○さんは、○○で見た」と消息の分る例もありましたが、無駄足を踏んで次の村に移って行く人が多かったようです。

 被爆をしていないのに、被爆者と同じ症状を出した症例に出会ったのは、2週間かそれ以上たったある日の午後でした。

 私の担当していた病室(村の中のある一画を自分の病室と決められていました)、部屋ではなくて、村の中の一画(道路や橋や樹木を目印に分けた)を担当病室として、毎日、看護婦を連れて回診するのです。その中に屋根の一部が壊れた土蔵があって、涼しいので重症患を入れていました。そこを一日二回、朝と昼、最初に回診していました。

 その日、朝は何もなかったのですが、午後の回診時に、土蔵の真中にきれいな着物を着た婦人が横たわっていました。着ている衣類で一目見て非被爆者と分ります。隣に寝ていた重症の兵士(3日後に死にました)が「軍医殿、お忙しいでしょうがこの奥さん、診であげて下さい。熱出しているから」といいます。昔の人は親切でしたね。本人は仰向けになって寝ているだけで何にも言いません。気分が悪かったんでしょう、きっと。

 私は殆ど不眠不休で、ろくに寝てもいません。忙しいのに風邪ぐらいでと内心思いましたが、傍によって口を開けて喉を見、胸を開けて聴診器を当て、「風邪だろうからこれを飲んで寝てなさい。二、三日でよくなる」と、解熱剤を一包渡して帰りました。その夫人は3日間、寝ていました。大したこと無いと思っていたので、その間、何も尋ねませんせした。4日目の朝、まだ寝ているので。気になって傍へ寄ってみたら、胸の合わせ目の白い肌に紫色の斑点が出ている。これはと思って、「奥さんはどうしたんですか」と聞きました。本人の言うには「一年前、松江で県庁職員の主人と結婚。直ぐに広島県庁に転勤になり、宇品に間借りしました。一年経ち、臨月になって七月初めに松江の実家に帰り、出産しました。ラジオが『広島に特殊爆弾が落ちて相当な被害が出た模様』と、それだけしか言わない。新聞も同じ文句が書いてあるだけ。心配していたら、広島から松江に逃げてきた人が『広島には誰も生きていない。家は全部焼けた』と言うのを聞き、心配になって出て来た」のだと言う。原爆が落ちて一週間目に広島の焼け跡に入り、宇品から県庁から爆心地の方をぐるぐる回って、一週間目に今度は村を歩き始めた。そして10日目に戸坂村へきて、土蔵の中で旦那と巡り合ったのだというんです。

 旦那の方は、早出して県庁の地下室で書類探しをしている時、いきなり天井が落ちてき下敷きになり、右大腿骨折で骨が外へ突き出る大怪我をした。地下室なのでピカには遭っていない。周りにいた仲間がみんなで担ぎ出してくれ、ぼつぼつ火が出始めた市内から逃げ出して、親戚だったこの家の土蔵で横になっていた。衛生兵が回ってきて、当時は包帯もなかった時なので、骨が突き出た太ももを無理やり引っ張って元に戻し。ぼろ切れを巻いて、竹の棒を当てて荒縄で縛ってくれた。これでも副木治療という応急手当なんです。「そのうちにくっつくから、歩けるようになったら這ってでも帰れ!とういうんで、後は何もしてもらえず、寝ているところへ奥さんが着たという次第です。奥さんは看病したくても本人が一応、元気なので、周りの重傷患者の手伝いをしてくれていました。

 そのうち熱が出始め、風邪だと思っていたら斑点が出てきた。私にも何が起こったのか訳が分りません。そうこうしているうちにだんだん悪くなって出血が始める、吐血する、下血する。髪の毛は抜ける。県庁で原爆に遭っている旦那の方は大隊骨折以外は何ともないのに、松江から爆発後一週間たって元気で出て来た夫人の方がおかしくなっている。旦那が気違いみたいになって。奥さんの看病をしましたが、 だんだん症状が重くなって、とうとう死亡しました。

 似たような症例は一人や二人じゃありません。死亡例は戸坂村では3-4例でしたが、発病者は多数ありました。当時、私たち軍医の間では、出血のあることから腸管伝染病を疑い、夜半、内密に死体解剖を行なって検査しましたが、チフスでも赤痢でもないことが確かめられました。

 今から思うと、後から市内に入ったこの人たちの症状は、体内に摂取した放射性物質からの低線量放射線による体内被爆に起因する慢性放射能症でしたが、それは二十年も経った後に分ったことで、加害者のアメリカは現在でもまだ、体内に摂取された放射性物質からの放射能は微量なので、人体には無害であると主張し続けています。


5.沈黙の中に

 私はその年の11月末、山口県の柳井市の伊保庄村に国立病院を作って、そこに被爆者を集めて治療を行ないました。広島から船で運んだ患者と、山口県各地に帰っていた被爆者が、国立病院ができたというので集まってきました。病院とは名ばかりで、建物は病室で七輪に薪をくべて暖房をとるような古兵舎だし、設備も無い、資材もない、食い物も薬も乏しい。米軍の直接占領下におかれた敗戦国で本当に惨めな状態でしてが、それでも必死になって患者を診療しました。

 重傷者の大部分は次々死に、家へ帰れる者は帰って行き、帰るところのない者だけが病院に残るようになりました。元気な者は点呼が済むと海岸で(病院の庭の先が海でした)一日中、魚釣をやっていました。

 そんな中に、無口で何にも喋らない患者がいました。どの医師が診察しても一言も口をきかない。病気は慢性腎臓炎。満州の大連の陸軍病院に入院し、内地へ転送されて広島陸軍病院に入院した患者です。腎臓炎は症状は軽く、食餌療法だけでの指示でしたが、入院後、6日目に原爆に遭いました。病室の中で被爆したので火傷もせず、偶然、私のいた戸坂村へ逃げ。結局、柳井まで一緒に行動したわけです。主治医の私が色々、聞いても「はい」とか「いいえ」とか短い返事をするだけで、何も言わないのです。分かっているのは名前だけ、どこの生まれか、戦地はどこへ行ったのか、何を聞いても返事をしません。

 それがある日、突然、自殺してしまった。首を吊ったんです。同室の者が早朝、便所に行って、表の松の枝に下がっているのを見つけ、大騒ぎになりました。理由も、何も分らず仕舞いのまま、形ばかりの葬儀があって、後は何事もなかったように海辺の病院の日が過ぎてゆきました。

 何ヶ月か経って、たまたま事務長と用談した時、「先生には話しておいた方がいいと思う」と、自殺した患者の話をしてくれました。そう言えば、自殺のあった日に、「親身になって診たのだから、死ぬくらいなら一言、相談してくれてもよさそうなのに」と事務長にこぼしたことがありました。 患者の遺骨を受取りに来た本籍の村役場の助役から聞いたのだが、他言は無用と断った事務長の話は、「患者は中国戦線に従軍中、間違って戦死の公報が役場に入った。家では葬式を出し、農家の長男の跡取だったので、彼の弟が嫂と結婚して後を継ぎ、子供も生まれている。そこへ彼が突然、生還してきた。事情を知った彼には帰る家はなくなっていたわけです。相談されても答えようのない、酷い話じゃないですか」「一言、相談してくれても」と自惚れていた私を叩きのめした一人の被爆者の死でした。


6.アメリカによる原爆被害の隠蔽

 昭和22年(1947年)、私は国立病院の医者でしたが、労働組合の役員をしていました。そんな私に広島の開業医の叔父から手紙が来ました。

叔父は宮島の傍の五日市で開業していました。終戦後、広島の被爆者がいっぱい受診し、外科医だったので私の知人や友人でガラス片を抜いてもらった者が沢山いました。

 私が労働組合の役員をしていると知って、私に厚生大臣に会って、「広島で生き残った医者は数が少ないし、被爆者の治療の方法が全く分らない。アメリカは被爆後、日本の各大学医学部が行なった調査資料を取り上げて持っている。それを公開してもらって欲しい。それと、治療法がわかっていたらそれを教えてくれるよう頼んでもらってくれ。アメリカは来年、広島に病院を作るらしい(ABCCのこと)。噂だが、そこでは検査だけをして治療はしないと聞いている。治療もするように厚生大臣に頼んで欲しい」と書いてありました。

 私は早速、厚生大臣に会いに行きました。当時の厚生大臣は林譲治という自民党の大臣で、私は団体交渉で始終、会っていましたから、その時も大臣が会ってくれて、こういうわけだと叔父の手紙を見せ、「GHQの担当の者に頼んで欲しい」と言うと、「そんなこと出来ない」と言下に断られました。天皇陛下でも簡単には会えないマッカーサー総司令官にそんなことが出来るか、と動こうとしません。それでも根気よく頼むと「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」といわれ、売り言葉に買い言葉というわけで私が行く羽目になりました。

 日比谷交差点の角の第一生命ビルに星条旗が翻っていて、正面玄関に衛兵が立っています。「軍医に会いたい」というと何かベラベラと英語で言われた。早口でよく分らない。「そのうちに「予約はあるか」と訊いていることが分り、「ない」というと「ダメ」と断られた。

 陸軍病院の営門でも兵隊に面会にくる家族に、衛兵は規定を教えて断るのですが、何度も来て顔馴染みになると人情が通って、中には入れないが、相手を営門まで連れ出して会わせることを知っていたので、何回も通えば道は開けると日参しました。三日目に同じ衛兵と顔を合わせ、「用件はなんだ」と聞くから「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「連れてきてやる」と昼食休みに若い軍医中尉を連れてきて会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて話すと。原爆関係は軍事機密でそんな問題は自分の権限外だと言う。困っていると、どうしてもと言うんなら上官に会わせるという。

 ちょうど朝鮮戦争が始まる直前でGHQが右傾化した時でした。占領直後、総司令部は日本を民主化するという任務もあって、労働運動を指導したり、農民組合づくりを応援したり、かなり民主的なメンバーが来ていましたが、朝鮮戦争を始める直前から右翼化が強まり、民主的な運動をしめつける方向に大転換した時期でした。

 呼び出されて会ったのは軍医の高官でしたが、医者なので紳士的に話をしてくれました。しかし結論は「資料の公開は不可能である。被爆者の疾病を隠蔽した事実も学会の研究を禁止した事実もない。念のため調査するから二週間待て」と言われた。やがて呼び出しがあり、「総司令部で調査の結果、隠蔽も禁止も全く事実無根である。従って、今後、そのような言動は一切しないように。万一、そのようなことを喋る時はその責任はお前が取らねばならない」と慇懃無礼に威嚇されて帰りました。

 猛烈に腹が立ちました。アメリカが落した爆弾で、死んだ者は別としても、なんとか助かっている者が診断もつかず、治療法も不明の病気で苦しんでいる。日本の学者が苦労して調べた資料を没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。理不尽な占領権力の傲慢さに、腹の底から憤りが全身に燃えあがりました。私はアメリカの無法と闘うため共産党に入ろうと決心しました。当時、被爆者の問題など、誰も相手にしてくれず、占領権力に真正面から立ち向っていたのは共産党しかなかったのです。


7.差別の中での死(昭和25年~30年)

 次に被爆者の死にぶつかったのは昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が始まった年。東京、杉並区の西荻窪で、労働者や貧しい人のための民主的な診療所をつくって活動していた時です。下痢が続くと言って通っていた、一見、すごく年寄りに見える男性患者がいました。職業はニコヨン。日当240円で市の失業対策事業(公園の掃除や道路工事)で働く日雇い労働です。16日勤めて手帳に判を貰うと、日雇い健康保険で無料で医療が受けられる。だから本人はどんなに辛くても無理をして16日は働くわけです。もう一つ、いつも首に手拭を巻いているのが特徴で、絶対にとろうとしませんでした。その患者がぱったり来なくなりました。中断してよい患者じゃないのです。看護婦が気がついてみんなで心配し、往診の途中にカルテの住所を訪ねてみました。ところが、その番地の辺は大きな農家ばかりで、なかなか分からない。漸く探しあてたのは、ある農家の鶏小屋でした。今は鶏のいない、トタン屋根だけの金網をはった鶏小屋の中に、戸板を敷いて、その上に煎餅布団を一枚敷いて寝ていました。一目見て、もうあまり長くない容貌です。相変わらず垢にまみれた手拭を首に巻いています。「もういいよ。分っているから取れよ」と言っても首を横に振ります。看護婦に大きい注射器とブドウ糖を直ぐ届けるよう診療所に電話をかけに行かせて、「もう誰もいない。私も広島の被爆者だから、首を見せなさい」というと、漸く手拭を外しました。予想通り、後頚部から右耳の下にかけて大きなケロイドです。やっと広島で被爆したことを話しました。

 当時は、被爆者であることを知られてプラスになることは何もなかった。まず周りを警察がうろうろする(被爆者は占領軍から広島・長崎のこと、被害のことなど、原爆に関することは一切、喋ることも書くことも禁止されていたので、地域によってはいつも警察の監視下におかれていた)。回りに人が寄らなくなる(病気がうつると言われた)。

 即刻、入院が必要でしたが、当時はこうした患者の入院できる病院などどこにもなかった。私が面倒を見るより仕方がないので、朝晩往診して大量補液を続けましたが、最後に死に脈を取り、本人の遺言通り、区役所の世話で無縁仏として葬りました。

 一ヶ月後、友人と言うのが訪ねて来て,患者遠藤某の被爆の模様が分かりました。彼は隊長以下十数名の特殊な通信隊員で、8月4日、原爆の落ちる2日前に満州から小さな船で広島の宇品に着いた。配属部隊の都合で船内に待機していて6日も朝、被爆した。隊長の命令で上陸し、西部軍司令部のあった広島城の付近で救援活動に従事、数日して発熱、下痢の始った数人の仲間と、大竹の海軍病院に送られ、入院した。一緒にいた仲間の兵は散り散りに退院して家に帰ったが、彼だけは帰る家がないからと言って残っていた。その後、音信が絶え、病院に問い合わせると昭和22年11月末に事故退院していて、行く先は不明だったという。そしたら彼と一緒にニコヨンで働いていた者から、遠藤が死んだという手紙が来て、先生に聞いたら最後の状態が分るだろうと、私を訪ねてきたわけでした。

 遠藤が軍隊復員後、直ぐに実家に帰らなかったのは、彼は養子で、養子に入った後に実子(彼の弟になる)が生まれ、養父母とも実子に相続させたくて、彼との関係が複雑、微妙になっていたのが原因らしいと、友人は推定していました。

 被爆者の過去には、被爆時はこうだった、ああだったいう、直接被爆時の話以上に、被爆してから後、どんな人生を送ったのか、そういう人生を送らざるを得なかった原爆との関わりをみんな持っています。ここを知らないと本当の被爆の恐ろしさをしることにはならないのです。熱かった、苦しかった、恐ろしかった、ケロイドができただけでは、人間と核兵器が何故、共存できないのかが繋がらないのです。


8.他の病名をつけられて死んだ原爆症の被爆者

 その次は昭和30年(1955年)。私が東京から埼玉県に移って2年目です。日本で最大の足袋の産地の行田市で、貧乏人でも親切に診てもらえる診療所を作ろうという運動が起こり、どういうわけか、是非、私にということになって、診療所を作りました。

 ところが3年目の春に共産党から市会議員に立候補することになりました。行田は非常に封建的な気風の強いところで、当時は社会党くさいというだけで馘になってしまう、行田では商売も出来なくなってしまうような街でした。社会党の市会議員もなくオール自民党の市でした。そこへ共産党を名乗って立候補したから、患者さんが押しかけて来て「折角、いい先生が来て貧乏人が助かったと思ったのに、共産党なんかで出たら村八分になって追い出されてしまう。市会議員なんかに出ないでくれ」というわけです。しかし止めるわけにはゆかないので、「必ず当選するから一生懸命応援しろ」と、頑張って3位で当選しました。

 最初の議会で、市長の市政方針への質問に、ある被爆者の死の問題を入れました。

 それは私が行田で診療を始めて1年目ぐらいのとき、近所の人から「首吊りが出た」と夜中に往診を頼まれました。駆けつけ人工呼吸をしてやっと、この世のものにしたのですが、事情を聞いても本人は何も話さない。この人も黙んまりのままなのです。

 小学校6年生くらいの女の子がいて、その子に聞くと、「お祖父さんとお母ちゃんがこの間、死んじゃった。お父ちゃんは貧乏でどうしようもない。病院で肝臓が悪いといわれた」と言います。それから色々調べたら18才のときに広島の観音町の町工場に勤めていて、爆心から4キロの自宅で、親子3人で被爆していた。その時の子どもは死んでしまったが、被爆した体で職もないし家もない。三次町で工場を始めた仲間がいて、働けるなら来いと拾ってくれ、何年か働いたが病気が出て働けなくなってしまった。奥さんの実家が埼玉県の行田市にあり、頼って来たわけだが。被爆者だったその奥さんが白血病で死んでしまった。そうこうするうちに、最後の頼りの奥さんの父親が脳出血で倒れ、あっという問に他界してしまい、知らない土地で頼れるものが誰もいなくなってしまったわけです。これでは生きていけないからと生活保護を申請したら、大きな仏壇を財産とみなされ、売れば当面,生活できるからと認めて貰えず、子どもに食べさせることもできなくなって自殺したということが分りました。

 私は市役所に、生活保護の申請に対してこういうむごい扱いをするとは何事かと抗議しましたが。厚生課長は「そういう事情は知らなかった。担当が厚生省の指示通りに、仏壇の処理を指示し、真面目に、規定通りやったと思う。結果がこういうことでは、もう一度、詳しく調査して,善処したい」というのが答でした。

 はじめての市議会で市長質問にこの問題を取り上げたのは、日本の社会保障制度の大黒柱である生活保護法が、厚生省大臣の国会答弁とは正反対に、一番下積みの国民の生活の現場ではどんな酷いことになっているかの事実を示し、自民党政府の上からの政治の支配を、地方自治体、市町村の市制、町政,村政が住民どう守らねばならないかを明らかにするためでした。

 当時は彼が被爆者だということが分っても、被爆者手帳もまだ交付されていない、医療法(「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」1957年、昭和32年)が出来る前のことですから何の特典もありませんでした。結局、生活保護を取って熊谷の病院に入院させましたが、肝硬変で亡くなりました。女の子は縁があって母子寮にいる私の患者で、小学生の娘を最近、失くした未亡人に引き取られてゆきました。

 被爆者がどんなに酷い目に会って死んで行くのかを、私はこの人の場合にも骨身に徹して教えられました。


9.死亡診断書が他病名になっている原爆病の被爆者

 同じ年の暮れです。行田の一地方新聞が「広島から来た気の毒な原爆被爆者が国の福祉行政によって救われず、終に死亡したことを共産党の市会議員が市議会で市長に質問して云々」いう記事を書きました。

 それを読んだ深谷にいた広島の被爆者が私を訪ねて来ました。彼は結核で某市の日赤病院にかかっていたました。被爆者であることを絶対に話さないでくれと妻から言われていたので医者にも言わなかったのだが、主治医が詳しく診察してくれないので、広島で被爆していて心配だと話したところ、「そんなことはあなたの病気に関係ない」と取り合ってくれない。行田には被爆者をよく診てくれる先生がいるというので私のところに来たと言います。

 この人は今日ここに来て居られる行宗一(はじめ)さんと関係があるのです。行宗さんは私が被団協の運動に参加した時は日本被団協の代表委員をしていた偉い人です。私のいた広島陸軍病院の直ぐ隣にあった西部二部隊の兵隊さんでした。たまたま行宗さんはできたばかりのコンクリート製トイレの中にいて助かったんですが、私を訪ねて来たこの人も二部隊の兵隊さんでした。本人は部隊長の当番兵で、あの日、兵舎の水道が壊れたので縁の下にもぐって水道工事をしていたそうです。そこへピカッと来て、600~700メートルの近距離ですから殆どの兵隊が死にました。本人はピカッと光ったと同時に崩れた兵舎の下敷きになってしまった。工具で隙間をあけて這い出たら、濛々とした埃で何にも見えない。だんだん晴れてくると兵舎も無ければ街もない。死体と怪我人の中を白島町から中山峠を超えて、西条(今の東広島)というところにあった親戚まで逃げて、しばらくそこにいてから、岡山の実家へ帰ったそうです。

 岡山には自分の嫂の妹が埼玉の深谷から遊びに来ていて。その人といい仲になって結婚したが、間もなく病気になってしまった。いつまでも兄のところに厄介になっているわけにゆかず、奥さんの実家の深谷へ来て療養をしました。瓦屋さんで手伝いをしたのだが、身体が思うようでない。日赤病院では結核といわれ、療養を指示されましたが、もう一つ納得が行かないので私のところに来たわけです。いろいろ調べましたが、私にはどうも結核とは思えず、ぶらぶら病症候群、原爆病のように思われました。胸部X線写真でも、腸の検査でも結核の病巣ははっきりしませんし、喀痰や尿の培養でも結核菌は検出されませんでした。最後は下血を繰り返して日赤病院に入院し、結局、亡くなりました。病名は腸結核でしたが、放射性起因の慢性血液疾患だった疑いが濃厚だったように思っています。

当時はまだ現在のような精密な血液検査ができない時期でした。

 以上のように私は多くの被爆者を診てきましたが、私が印象に残っている被爆者の死を綴ってゆくと、直接、高線量のピカにやられて、「あれじゃ助かりようはない」という死に方よりも、後から入市したとか、遠距離で僅かしかピカを浴びなかった、所謂、残留放射能に被爆して遅くなって死んで行ったという症例が多く、原爆で殺されたと証明する方法がない、口惜しい,歯がゆい死に方をした被爆者が強く印象に残っています。考えてみると、被爆者には、ひと目で被爆者と分る火傷跡やケロイドの目立つ障害者よりも、何んとも言いようのない不運を背負って、連れ合いからも,身内からも甲斐性なし、怠け者と思われながら、あまり幸せでない人生を歩かされてきた人たちの方が多かったように思われます。
 ピカを生き延びた被爆者がこうした不幸な死への道をたどらざるを得なかったのは、第一に、アメリカが対ソ戦略上の理由から、原爆被害の放射線障害をプレスコードをしいて隠し続け、被爆者に最も必要だった障害の研究と、治療法の開発の道を閉ざしたこと。第二には日本政府がアメリカの理不尽な圧力に屈して十二年間、社会の底辺で苦しむ被爆者を全く放置したことによると私は確信しています。


10.日本被団協が誕生し、被爆者は闘い続けてきました。

 ビキニの水爆実験(昭和29年、1954年)のあと、日本全国で原水爆禁止の署名運動が起こり、1930年に原水爆禁止大会が広島で開かれ、原水爆実験禁止の運動が公然と闘われるようになりました。その勢いに支えられて昭和31年(1956年)、長崎での第二回原水爆禁止世界大会の後、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が長崎で結成しました。埼玉県にも昭和32年(1957年)、秩父の被爆者小笹寿さんが埼玉県内にいる広島。長崎の被爆者を一人、一人,訪ねて探し出され、会を結成されました。当時はまだ県民の間に被爆者に対する理解が乏しく、警察による干渉と資金難から数年で無活動状態になって運動が中断しました、1973年(昭和48)に埼玉被団協(しらさぎ会)が再開されてからは、日本被団協の一員として「核兵器廃絶」「国家補償による被爆者援護法」の二要求を掲げ、県在住被爆者2400余名の約3分の1を組織して、活動を続けています。

 再建当時,平均年齢50歳前後だったしらさぎ会の主メンバーも、2001年現在では平均年齢75歳の高齢になり、この2―3年、急速に死亡者が増え、癌死亡が圧倒的に多いのは,覚悟していることとは言え,悲しい限りです。


11.被爆者の要求と政府の被爆者対策の対立点

(1)被爆者援護法
 被爆者は1931年の創立時から被爆者援護法を要求してきましたが、1984年11月[昭和59]「原爆被爆者の基本要求」を決定し、援護法の性格を「国家補償による被爆者援護法」と明確に規定しました。

 これは政府の諮問を受けた「原爆被爆者基本問題懇談会(基本懇)が「核戦争被害をも含めて戦争被害の『受任』を国民に強い、『原爆被爆者援護法』の制定を拒否した1960年(昭和58)の答申(意見)に対する批判を踏まえ、被爆者の基本的な願いとその実現の方法を明らかにしたものです。

 政府の被爆者対策は ①「戦争の被害は国民が受任すべきもの」②「原爆被害のうち放射線による障害だけを補償の対症にする」③「補償は国家保障でなく弱者救済の社会保障で行なう」を基本にしていますが、被団協は ①「人間として生きることも死ぬことも許されない原爆被害は到底受任できるものではない」②「原爆被害はからだ、こころ、くらしの全てに亙る障害であり、放射能被害に矮小化し得るものではない」③「原爆被害は『孫訴訟における最高裁判所判決』が『遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの』と規定した通り、被害者本人に全く責任のない被害である。よって弱者救済の社会補償によるべきではなく、あくまでも国家責任で行なうべきである」と主張している。


(2)原爆放射線の被害をめぐって
 更に放射線による被害についても、政府は被害を被爆放射線量によって区分し、アメリカが作定した距離別放射線量を示すDS86(最高裁判所が松谷裁判で「疑問があり、適切ではない」と判決)により、対象者を爆心地からの近距離直接被爆者に限定、残留放射線による内部被爆者の被害を無視してきたことに対し、被団協は被爆が直接であれ、間接であれ、原爆被害は被爆線量によって判定せず、被爆の状況と被害の実相を重視し、少なくとも癌に罹患した被爆者はすべ「援護法」の認定被爆者として認めるよう主張して、真っ向から対立しています。


12.被爆者に対する援護の問題について

 被爆者は日本被団協を結成して運動をはじめた当初から、各界、各層の団体,個人から限りない援助と励ましを受けてきました。これらの被団協に寄せられた支援と援助は「被爆者援護」という言葉で総称されてきました。核兵器廃絶を目標に掲げた日本原水爆禁止協議会(日本原水協)は1955年の結成総会以来、核兵器廃絶と被爆者援護を活動方針の主軸に掲げています。

 各種団体、個人から被爆者運動に寄せられた援護活動の最大のものは、なんといっても財政支援、資金援助でした。僅かな会費収入以外に財源のない中央、地方の被団協にとって、活動を通じて国民から集めたカンパ、寄付を含めて寄せられる各界からの多額の寄付が、今日まで被団協の活動を支えて来たと言って決して過言ではありません。

 援護は資金援助だけでなく、困窮する被爆者への相談から高齢被爆者への手編みの肩掛け、膝掛けの贈呈など、こころ温まる善意の援助がよせられました。

 こうした援護活動が長く続けられてきた結果、「被爆者援護イコール金品の寄付」という図式が固定してしまったような嫌いがあります。今日、高齢化した日本被団協は組織が弱体化し、財政的にも困難が増大していますから、今後も引き続き寄付に異存せざるをえないことは当然ですが、もう一つ、重要な「援護」があることを述べておきたいと思います。

 今、被爆者手帳を持って生き延びている被爆者は全部で29万人余ですが、そのうち被爆者の会に所属して、被爆者という自覚を持ち、なんらかの活動に参加するのは10%以下だろうと推定され、被団協新聞の定期購読者も2万人前後にすぎません。

 残念ですが大部分の被爆者は、今日でも被爆者であることを隠し、子供や孫にも内緒にして暮しています。就学、就職、結婚、出産など人生の節目,節目に、被爆者であるために加えられてきた不当な差別と疎外の苦しみを二世,三世に味合わせたくないとの思いが消えないのです。

 若し、この人たちが挙って被爆体験を語り、核兵器の悪を暴いて、原水爆禁止運動の中に加わっていたら、被団協はもっともっと大きな力を発揮できたであろうと、歯がゆい思いでいっぱいです。

 被爆した事実を隠すということは、人間として自由に生きる権利を自分から制限し、ナチスの強制収容所と並んで今次世界大戦の最大の人権侵害と言われる原爆攻撃に頭を下げ、屈服してしまうことを意味します。このような人たちは自分一人では「原爆は黙っていること」という呪縛から抜け出すことができません。みなさんから、是非、被爆の体験を聞かせて欲しいと誘って下さい。被爆者に力を貸して、残り少なくなった被爆者の最後の人生を。世界平和のために役立てる花道として、胸を張って生きて行けるよう手助けして下さること、それが被爆者への最大の援護であると申し上げて、私の話を終ります。

広島・長崎を語り継ぐために
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/index01.html

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