2011年8月18日木曜日

日本の原発産業の「人工芝運動」と不完全を嫌う優秀の愚かさ

英語メディアが伝える「JAPAN」なニュースをご紹介するこのコラム、今週も原発についてです。市民主導に見せかけて実は企業や利益団体主導だったニセモノの草の根運動を、英語では「人工芝」と呼ぶことなどについて。そして不完全な情報は出せないという、実に霞ヶ関らしい優秀さのようなものゆえに、被曝被害が拡大したかもしれないことについて。(gooニュース 加藤祐子)


人工芝はこすれると痛い

米国債が格下げされ、世界の市場は乱高下し、ロンドンは燃やされ、アフリカでは飢饉(ききん)が拡大し、シリアでは民主化運動の弾圧が激化し、日本は暑さにうだり、被災地の動物たちは飢え、福島県では約4万9000人が県外避難を余儀なくされ、にもかかわらず北海道では泊原発が運転再開しようかという今日この頃、いかがお過ごしですか。

そういう状況で英語メディアを眺めていて目にとまったのが、日本の原発業界による「人工芝」運動を取り上げた米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事でした。九州電力の「やらせメール」問題、そして経済産業省の原子力安全・保安院が各地の原発関連シンポジウムで電力会社に「やらせ質問」を要請していた問題についてです。記事はこれを、「草の根(grassroots)」ならぬ「人工芝(Astroturf)」運動と呼んでいます。

「Astroturf campaign」というのは真新しい造語ではなく、英語版のウィキペディアによると、1985年ごろから使われている表現とのこと。文字通り、ニセの草の根運動のことです。企業や業界、政党などが、自然発生的な市民運動にみせかけて仕掛ける運動を意味します。自然の芝と違って人工芝は滑ってこすれると痛いですが、別にそこまでひっかけたわけでもなさそうです。

『ウォール・ストリート・ジャーナル』の「日本の原発業界、スキャンダルで汚れる」というこの記事ではチェスター・ドーソン記者が、福島第一原発の事故は日本における原子力発電にとって大きな打撃だったが、事故後の業界の下手な画策のせいで国民の信頼は大きく失墜したと書いています。「集会に原発推進派を大量動員したり、やらせ質問をさせたり、メール作戦を展開させたりと、こうした一連の『人工芝作戦』は、今やひどい逆効果をもたらしてしまった。国民は激怒し、定期検査で休止中の原子炉を再稼働するのが難しくなってしまった」と。さらにその「人工芝運動」に原子力保安院が主体的に関わっていたことが、保安院の分離解体につながったのだとも。

原発の安全規制などを担う新組織「原子力安全庁」(仮称)を環境省の外局として設置する基本方針決定については、たとえばロイター通信が12日の関係閣僚会合での決定を受けて、環境省は経産省ほど「力はないが、(原子力保安院ほどは)業界と癒着していない」と説明。ロイター通信はさらにこの件について、環境政策やエネルギー問題の専門サイト『Ecopolitology』の記事を転載していました。

同サイトのティモシー・ハースト編集長は、「アメリカで大統領を目指すミシェル・バックマンやニュート・ギングリッチを含む大物保守政治家たちが環境保全庁(EPA)の解体を求めている時を同じくして、日本政府は正反対の方向へ向けて動いている。環境省の権限を拡大し、原子力規制もその管轄下に入れようとしているのだ。この決定は、菅直人首相にとって重大な勝利だと言われている」と評価。そしてやはり、日本の原発産業と経産省による「人工芝運動」を批判しています。

英紙『ガーディアン』は16日付の社説を「ポスト福島 原発の汚い手口」と題して、「原子力安全庁」の設置について、「原発導入から半世紀たってようやく、日本は推進と規制を切り分けたが、国民の信頼を回復するにはもはや遅すぎるかもしれない」と書いています。


世界でも極端な日本の原発産業

「政府が公表しない地元の放射線量を調べるため市民が自前の線量計を使わなくてはならない国において、福島の事故後に生命や健康に関するリスク情報があまりに場当たり的に小出しにされた国において、そしてあれほどの大事故が起きても臆面もなく汚い手口を使って国民の議論を動かそうとしているらしい原発業界を持つ国において、単に政府の役所を並べ替えただけではとても十分だとは言えないだろう」とガーディアン紙は社説で痛罵しています。

さらに「日本の企業文化は極端から極端に触れる。目先の利益をやみくもに追求する無軌道さが片方にあるかと思えば、もう一方では何かまずいことが起きると懺悔し涙を流し心からの(ように見える)謝罪を繰り返す」ものなので、日本の原発産業のやらせと世論懐柔の手口は極端なケースかもしれないが、「原発産業を抱える全ての国が同じ問題を抱えている」と。

危機管理では、危機の危険性を最大限に悲観的に想定して準備し、実際の危機を最小限に抑えるのが鉄則だと思っていましたが、ガーディアン紙いわく、「原発は人類が使いこなそうとしてきた中でも最も危険な技術だが」、どの国にあっても原発産業は「それにつきもののリスクを過小評価しようとする衝動、事故を隠したりその規模を過小評価する傾向、次世代型の発電所が開発されるたびにこれは完全無欠で絶対安全だという思い込み、そしてあらゆる事態を想定し対応できているという過信」を、何度も何度も露呈してきたというのです。しかも、日本はその中でも特に極端なケースだと。うーむ……。

リスクを過小評価し不都合な事実に目をつぶるのは、それは「今この瞬間」の安寧と安定をつい優先しがちな、凡庸なる人間の本能のようなものなのかと思っています(自分もその要素はありますし)。けれども、では、日本の教育制度において最高峰を極めてきたはずの、ゆえに国家公務採用 I 種試験に優秀な成績で合格し、人によっては欧米の最高峰の大学に国費留学する機会も与えられてきた人たちが、つまりは霞ヶ関の官僚たちが、なぜそんな凡庸な人間的弱さを露呈してしまうのか。

皮肉なことにそれは、彼らが幼い頃から極めてきた優秀さ故ではないかと、私は思っています。日本の学校で優秀な成績を収め、国家公務員となり、それぞれの組織の中で適正に機能していくプロセスの中で、多くの官僚がおのずと身につけてる本能のようなものは、「いい加減なことは言わない、不正確なことは言わない、混乱を作らない」ことだと思うのです。しかもこれは、平時においては褒められるべきものです。

しかし危機下においては……。

不完全なデータを出さないのは悪いことか

米紙『ニューヨーク・タイムズ』が9日、「日本政府、原発データ公表せず避難民を危険にさらす」という記事を掲載し、日本でも複数メディアが取り上げました。原発事故を受けて文科省管轄の「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」が北西方向への放射性物質拡散を予測していたにもかかわらず、データ公表が遅れたため、福島県浪江町の住民が避難先で高い被ばくリスクにさらされたという内容です。

政府が「SPEEDI」の拡散予測結果をすぐに公表しなかったことは3月中から指摘・批判されていたので、それは日本人にとって新規なニュースではないですが、『ニューヨーク・タイムズ』がそれは「批判と責任を恐れる官僚たちが隠した」せいだと言い切ったのが、ニュースと言えばニュースです。

朝日新聞の3月21日記事によると、政府は当時、「SPEEDI」データを公表しなかった理由として「データが粗く、十分な予測でないため」と説明していました(政府が「SPEEDI」データについて公表したのは、3月23日)。そしてこちらの5月4日の朝日新聞記事にもあるように、「SPEEDI」が予測した北西方向にある「福島県飯舘村など5市町村の住民に避難を求めると、政府が発表したのは4月11日で、結果として対応は後手に回った」ことも日本では既報です。

さらに「SPEEDI」試算の公表が遅れたことについて、当時首相補佐官だった細野豪志氏は5月2日の会見で「国民がパニックになることを懸念した」と説明しています(ちなみに細野氏はこの点について原発事故担当相になった時点で「情報を隠したときの方がパニックになる可能性がある」と情報公開の方針を述べていて、評価できます)。

しかし政府側の説明は政府側の説明として、『ニューヨーク・タイムズ』のノリミツ・オオニシ、マーティン・ファクラー両記者は、「責任回避と批判回避を追求する文化の中で動く東京の官僚たちは、予測を公表しなかった」と書きます。また、「SPEEDI」について事故当初は知らなかった政治家たちは「避難圏の大幅拡大を恐れて」データはそれほど重要ではないと主張していたと。

その結果、たとえば福島県浪江村の住民数千人は3月12日から15日にかけて放射線量のきわめて高い浪江町津島に、そうとは知らず避難してしまったと。同村の馬場有町長は同紙に対して、「SPEEDI」の予測を知っていれば違う場所に避難したのに何も知らされていなかったと述べ、内部被曝の懸念を語り、政府が情報を公表しなかったのは「殺人」に等しいと語ったそうです。

責任をとらされないように動く。批判されないように動く。情報がしっかり固まっていない間はうかつに公表しない。

これはきわめて官僚的な発想であると同時に、組織で働く人の多くがそうではないでしょうか? 胸に手を当ててジッと考えてみれば。しかもこれは平時においては、そんなに悪いこととも思えません。きちんと確認のとれていない情報はうかつに流さないというのは、危機時におけるデマ発生防止の基本でもあります。

しかし、今まさにそこに危険が差し迫っている時は、例外です。

火が、水が、崩れた土砂が、敵機の襲来が、あるいは放射性物質がもうすぐそこに迫ってきているのに「逃げろ−」と叫ばず、「影響に関する正確なデータがまだきちんと揃っていませんので」と理屈をこねてばかりいるのは、それはただの馬鹿者です。そして「見殺しにした」と言われても仕方がありません。

学校の中で優秀であること。組織の中で、社会の中で優秀であること。平時において優秀であること。危機下において優秀であること。

全ての優秀さを備えた人間は少ない。けれどもそういう人材を育てていかなくては、次の大災害の時にまた同じことを繰り返します。「学校で放射能のことをどう教えるか」議論する教師たちのニュースを昨夜テレビで見ながら、そんなことを考えていました。

Japanなニュース  2011年8月 (引用)
http://dictionary.goo.ne.jp/study/newsword/wednesday/20110817-01-1.html



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