10メートルほど先の演壇に立つ菅氏。最後の晴れ舞台とでも勘違いしているのか光沢感のある背広をまとい、自画自賛を連発する。白けた気分で聞くうちに、ある夜の記憶がよみがえった。
記事本文の続き 日本の首相、すなわち自衛隊の「最高指揮官」を務めるに足る人格も品性も持ち合わせていないことを物語る記憶だ。
ここまで日本をボロボロに壊し、退陣会見でも失政を認める反省の弁もなかった。もはや忌まわしい記憶を公にすることに遠慮はいらないだろう。
■泥酔状態でバーに
日記をつけているわけではないが、平成14年で間違いないと思う。知人に連れられ、東京・有楽町の古いバーのカウンターで飲んでいた。深夜で、客はわれわれ2人だけ。入り口の扉が開き、1人の男が入ってきた。菅氏その人だった。
ふらつく足どりで店の奥へと進んでくる。ひとめで泥酔状態だとわかった。目もすわっていた。
酒場で最も近づきたくない手合だが、運悪く知人と菅氏は顔見知りだった。さらに厄介なことに私の隣の椅子に腰を落ち着けてしまった。
「おい、岡山。おまえ何を取材しているんだ」。私の出身が岡山県で職業は新聞記者だと告げると、肩に手を回し揺すりながら、何度もそう繰り返した。
岡山は菅氏自身の本籍地で、伸子夫人の出身地でもある。親近感を抱いていただいたのはいいが、あまりにもしつこかった。その証拠にそれ以外の言葉は覚えていない。というか、言葉になっていなかった。
■からんだあげく退散
ろれつが回らないくせに執拗(しつよう)に同じ言葉を繰り返し、こちらが説明しようにも、きちんと耳を傾けているようにも見えなかった。付き合わされるのは時間の無駄だし、我慢の限界に近づいてもきた。
「あの薬害エイズ問題で国民の心をつかみ、名をはせた政治家なのか」。そんな思いも頭の中をめぐっていた。
「いいかげんにしてもらえませんか」。意を決して伝えた。すると菅氏は露骨に不機嫌になり、しばらくすると店を出ていってしまった。
「下手を打ったな」。再び2人きりになった店で知人がそうつぶやいた。菅氏を不機嫌にさせた私が悪いという意味らしかった。
ただ、こちらから菅氏に語りかけたことはなく、一方的にからまれただけだった。初対面の人にここまで不快な思いをさせられた経験はそうはない。
もっとも政治家といえども酔いたい夜もあるだろうし、虫のいどころが悪いときもあろう。だが、ここまでタチの悪い客ぶりをさらけ出してしまうとは、とあぜんとした。最初の民主党代表時代の女性スキャンダルに際し、伸子夫人が「あなたは脇が甘いのよ」と叱責したのもうなずける。
■官邸の主としても
昨年6月に菅氏が首相に就任してからも、この夜のことは時折思い出した。とりわけ東日本大震災と東電福島第1原発事故が発生して以降、思い出す頻度は増した。首相官邸の異様な光景が伝えられたからだ。
発生から1カ月たち、首相官邸の5階にある執務室は「開かずの扉」と呼ばれるようになっていた。原発対応をめぐり、政治家であろうと官僚であろうと、だれかれかまわず怒鳴り散らした結果、だれも執務室に寄りつかなくなったためだという。「肌感覚」でわかる気がした。
逆ギレすることも多かった。菅氏の指示が不十分で事態収束に手間取っているにもかかわらず、「指示はとっくに出した。なぜ進まないんだ」と不満を爆発させることもあった。「下手を打った」と知人に指摘された私も、逆ギレされたとの思いが強い。
不機嫌になると、さっさと店を後にしただけに「逃げ足」の速さも目の当たりにしている。
首相就任記者会見で自らの内閣を幕末の志士、高杉晋作にちなみ、「奇兵隊内閣」と命名し、その理由として「高杉は逃げるときも速いし、攻めるときも速い」と先に逃げ足に言及した菅氏。番記者のぶらさがり取材を1日2回から1回に減らし、大震災発生後は全く応じなかった。これでは「逃げ菅」と呼ばれても仕方あるまい。
「とりわけ自衛隊が国家、国民のために存在するという本義を全国民に示してくれたことは、指揮官として感無量だ」。退陣表明した記者会見で、菅氏は大震災と原発事故への対応に触れ、自衛隊の最高指揮官であることを唐突に強調した。
しかし、この言葉を「感無量」と受け止めた自衛官は皆無だろう。逆に、「改めて法律を調べたら自衛隊に対する最高の指揮監督権を有していた」という菅氏の「迷言」がよみがえり、多くの自衛官が白々しい気分になったに違いない。
よもやあるまいとは思うが、菅氏から「自衛官を慰労したい」と誘いを受けることがあったとしても、酒席をともにすることだけは避けるべきだと強調しておきたい。 (半沢尚久)
IZA 防衛オフレコ放談 2011/09/11 14:08 (引用)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/527433/
岡山は菅氏自身の本籍地で、伸子夫人の出身地でもある。親近感を抱いていただいたのはいいが、あまりにもしつこかった。その証拠にそれ以外の言葉は覚えていない。というか、言葉になっていなかった。
■からんだあげく退散
ろれつが回らないくせに執拗(しつよう)に同じ言葉を繰り返し、こちらが説明しようにも、きちんと耳を傾けているようにも見えなかった。付き合わされるのは時間の無駄だし、我慢の限界に近づいてもきた。
「あの薬害エイズ問題で国民の心をつかみ、名をはせた政治家なのか」。そんな思いも頭の中をめぐっていた。
「いいかげんにしてもらえませんか」。意を決して伝えた。すると菅氏は露骨に不機嫌になり、しばらくすると店を出ていってしまった。
「下手を打ったな」。再び2人きりになった店で知人がそうつぶやいた。菅氏を不機嫌にさせた私が悪いという意味らしかった。
ただ、こちらから菅氏に語りかけたことはなく、一方的にからまれただけだった。初対面の人にここまで不快な思いをさせられた経験はそうはない。
もっとも政治家といえども酔いたい夜もあるだろうし、虫のいどころが悪いときもあろう。だが、ここまでタチの悪い客ぶりをさらけ出してしまうとは、とあぜんとした。最初の民主党代表時代の女性スキャンダルに際し、伸子夫人が「あなたは脇が甘いのよ」と叱責したのもうなずける。
■官邸の主としても
昨年6月に菅氏が首相に就任してからも、この夜のことは時折思い出した。とりわけ東日本大震災と東電福島第1原発事故が発生して以降、思い出す頻度は増した。首相官邸の異様な光景が伝えられたからだ。
発生から1カ月たち、首相官邸の5階にある執務室は「開かずの扉」と呼ばれるようになっていた。原発対応をめぐり、政治家であろうと官僚であろうと、だれかれかまわず怒鳴り散らした結果、だれも執務室に寄りつかなくなったためだという。「肌感覚」でわかる気がした。
逆ギレすることも多かった。菅氏の指示が不十分で事態収束に手間取っているにもかかわらず、「指示はとっくに出した。なぜ進まないんだ」と不満を爆発させることもあった。「下手を打った」と知人に指摘された私も、逆ギレされたとの思いが強い。
不機嫌になると、さっさと店を後にしただけに「逃げ足」の速さも目の当たりにしている。
首相就任記者会見で自らの内閣を幕末の志士、高杉晋作にちなみ、「奇兵隊内閣」と命名し、その理由として「高杉は逃げるときも速いし、攻めるときも速い」と先に逃げ足に言及した菅氏。番記者のぶらさがり取材を1日2回から1回に減らし、大震災発生後は全く応じなかった。これでは「逃げ菅」と呼ばれても仕方あるまい。
「とりわけ自衛隊が国家、国民のために存在するという本義を全国民に示してくれたことは、指揮官として感無量だ」。退陣表明した記者会見で、菅氏は大震災と原発事故への対応に触れ、自衛隊の最高指揮官であることを唐突に強調した。
しかし、この言葉を「感無量」と受け止めた自衛官は皆無だろう。逆に、「改めて法律を調べたら自衛隊に対する最高の指揮監督権を有していた」という菅氏の「迷言」がよみがえり、多くの自衛官が白々しい気分になったに違いない。
よもやあるまいとは思うが、菅氏から「自衛官を慰労したい」と誘いを受けることがあったとしても、酒席をともにすることだけは避けるべきだと強調しておきたい。 (半沢尚久)
IZA 防衛オフレコ放談 2011/09/11 14:08 (引用)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/527433/
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