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2012年1月13日金曜日

横須賀薫先生を招いての教育シンポジウム

医師になる者は医学部を卒業した後に医師国家試験に合格して医師免許を取得する。
弁護士になる者は法学部を卒業した後に司法試験(法曹国家試験)に合格して法曹免許を取得する。
が、しかし、教員(学校の先生)になる者は教育学部を卒業するだけで教員免許を得ることが出来る。

これが現在の日本の教育レベルが低下している原因の一つであることは明らかです。
医師や弁護士を目指す者は、卒業後も国家試験に合格すべく専門知識の勉強をしなければなりません。
かたや教員は、教員免許資格を取得するすることが出来る大学に一旦入学してしまえば、自動的に教員となることが出来るのですから、入学後に一生懸命に勉強する必要がありません。
これでは実技試験免除の自動車学校や船舶免状を取得するのと大差ありません。

そこで横須賀薫先生と私達は、今後は教員免許を国家試験とし、教育学部を卒業した後に国家試験に合格しなければ教員免許を得ることが出来なくすることで、教員のプロフェッショナリズムを高めようと考えます。

ハードルを高くすることで従来よりもたくさん勉強しなければならないのですから教員を目指す人達からの反発も多いとは思いますが、将来の日本の質を高めるためには教員のレベルアップが必要です。

2012年春に教育シンポジウムの開催を計画しています。

汚染食材を使用した給食を強要する様な、己の保身を第一に考える先生やセクハラ事件を起こす先生なんて誰も望んではいません。
将来の日本を背負って立つ、教育を真剣に考えなければならない時期に来ています。

横須賀 薫 先生のプロフィール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%96%AB

不登校、学力低下問題と横須賀薫氏のことば
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200904220000/

2011年11月14日月曜日

幸福の定義

『幸福への挑戦 サイコ・サイバネティクス』(マクスウェル・マルツ)より

ジョン・A・シンドラー博士の幸福の定義は、「思考のほとんどが常に快適でありうるような心の状態」である。

「幸福は心の状態」というのは異論のないところでしょう。
「幸福とは、幸福感を伴う心の状態」のような、幸福感という“感情”に主眼を置く考え方が多いと思います。
“思考”に主眼を置いたシンドラー博士の定義は、私にとってはとても興味深いものです。

『幸せとは、楽しい考え方が心を占めている状態、を言う』
という訳のほうがわかりやすいと思います。

人の心の二大要素は、“感情”と“思考”でしょう。
感情は思考に左右されます。その時に考えていることによって感情が変わります。幸せなことを考えれば幸せな気もちになり、不幸なことを考えれば不幸な気もちになります。
思考は感情に左右されます。その時の感情によって思考が左右されます。幸せな気もちの時には幸せになる考え方をしやすく、不幸な気もちの時には不幸になる考え方をしやすくなります。
そういう意味では、幸せな感情と幸せな思考は共存するものであり、そういう心の状態が“幸福”であると言えるのでしょう。

感情を直接コントロールすることはできないでしょう。
思考はコントロールできます。
何らかの行動をすることで感情を変えることはできますが、その前に「○○しよう」のような思考によって行動は起こります。
ビジュアルや音楽などをイメージすることで感情を変えることもできますが、それも(イメージ)思考と言えるでしょう。

心をコントロールするためには、まず思考を変えることからです。
幸せになりたいのなら、考え方を変えることからだと私は考えています。
そして、最終的には幸福感として感じられることが大事なのです。

「幸福は、感じるもの」
「自分が幸福感を感じられるものは、すべて自分の幸福」
とも言えるでしょう。

『幸福とは、そのまま変わらないで欲しいような、
そのような状態である』 フォントネル

「幸福は、人間の理想の状態であり、すべての人が心の中で求めているもの」だと思います。
それを明確な目標として努力することを、私はおすすめします。
幸せになろうと努力する人のために、少しでもお役に立てれば、幸いだと思っております。


幸福の定義 2005/10/21 (引用)
http://www.shiawasehp.net/diary/200510/21.html

2011年9月26日月曜日

驚愕! 「喫煙者は禁煙者に比べて3分の1もの記憶を失う」という研究結果

喫煙が健康に良くないことは周知のことだが、最新の研究では新たな人体への影響が確認された。それによると、喫煙者はたばこを吸わない人と比べると、なんと3分の1もの記憶を失うというのだ。

英ノーサンブリア大学の研究者らは、18~25歳の被験者70名を対象に記憶力テストを行った。全員で大学内を散策し、どこに何があったか、掲示板にはどんなことが書かれていたかなど様々なことを記憶していってもらうという、いたって単純なものだ。

テストの結果、喫煙者が覚えていたのは全内容の59パーセントほどであった。これに対し、喫煙をしたことがない人は81パーセント記憶していた。さらに驚くべきことに、以前は喫煙していたが禁煙に成功したという人では74パーセントだった。

研究チームを率いたヘファナン教授によると、「禁煙することが健康に良いことは知られていますが、記憶力に関しても大きな効果をもたらすことが明らかになったのは今回が初めてです。たばこをやめれば、脳の認知機能を回復させることができるということです」とのこと。教授は今後、受動喫煙などに関しても記憶力にどのような影響があるのか調べていくという。

今回の研究結果は、そろそろ禁煙しようかと考えている方にとって、背中を押してくれるひとつの要因となるかもしれない。自分は喫煙しないという方でも、周囲に禁煙できずに困っている人がいたら、この結果を教えてあげると良いだろう。

参照元:Mail Online(英文)

ロケットニュース24  2011/0926 (引用)
http://topics.jp.msn.com/wadai/rocketnews24/column.aspx?articleid=708642


この記事を読んで思った事。
仮に喫煙者が三分の一の事を忘れてしまうとしても、人生の三分の一は都合の悪い事だと思えばむしろ気が楽になるのかもしれない。
でも忘れる事が、すべて都合の悪い事ばかりじゃないだろうけれどもね。

2011年9月22日木曜日

ネット回線速度、韓国が世界最速「わが国は10分の1…」=中国

 米Pando Networks社がこのほど行なったインターネット回線の平均接続速度の調査の結果、中国のインターネットの回線速度が、韓国の速度よりも現時点で約10分の1遅いことが分かった。中国経済網などが報じた。
同社は調査において、約224カ国、約2000万台のPCを対象に、2011年1月から6月の間、PCでのダウンロードを約2700万回行った結果を集計した。その結果、1位は韓国で、1秒あたり2202KBのダウンロードを可能としていたことが分かった。
2位以下は以下のとおり。意外なところでは、欧米の先進国のうち、米国616KBp/s、英国599KB/s、フランス604KB/s、カナダ579KB/s、ドイツ647KBp/s、オーストラリア348KBp/sなどがいずれもランクインを逃している。
1.韓国 2202KB/s
2.ルーマニア 1909KB/s
3.ブルガリア 1611KB/s
4.リトアニア 1462KB/s
5.ラトビア 1377KB/s
6.日本 1364KB/s
7.スウェーデン 1234KB/s
8.ウクライナ 1190KB/s
9.デンマーク 1020KB/s
10.香港 992KB/s 
一方、中国は245KB/sで、世界平均の580KB/sに及ばなかった。中国経済網などでは、「世界のインターネット回線速度比べ、中国は韓国の10分の1」などと報じた。
(編集担当:青田三知)

livedoor news 2011/09/22 (引用)
http://news.livedoor.com/article/detail/5881450/

2011年9月21日水曜日

バーで泥酔…菅前首相にからまれた夜

  8月26日に首相官邸で行われた菅直人前首相の退陣表明を間近で見た。菅氏の記者会見を生で聞くのは初めてだった。  「やるべきことはやったという思いだ」「内閣としては一定の達成感を感じている」

10メートルほど先の演壇に立つ菅氏。最後の晴れ舞台とでも勘違いしているのか光沢感のある背広をまとい、自画自賛を連発する。白けた気分で聞くうちに、ある夜の記憶がよみがえった。

記事本文の続き 日本の首相、すなわち自衛隊の「最高指揮官」を務めるに足る人格も品性も持ち合わせていないことを物語る記憶だ。

ここまで日本をボロボロに壊し、退陣会見でも失政を認める反省の弁もなかった。もはや忌まわしい記憶を公にすることに遠慮はいらないだろう。


■泥酔状態でバーに

日記をつけているわけではないが、平成14年で間違いないと思う。知人に連れられ、東京・有楽町の古いバーのカウンターで飲んでいた。深夜で、客はわれわれ2人だけ。入り口の扉が開き、1人の男が入ってきた。菅氏その人だった。

ふらつく足どりで店の奥へと進んでくる。ひとめで泥酔状態だとわかった。目もすわっていた。

酒場で最も近づきたくない手合だが、運悪く知人と菅氏は顔見知りだった。さらに厄介なことに私の隣の椅子に腰を落ち着けてしまった。

「おい、岡山。おまえ何を取材しているんだ」。私の出身が岡山県で職業は新聞記者だと告げると、肩に手を回し揺すりながら、何度もそう繰り返した。
岡山は菅氏自身の本籍地で、伸子夫人の出身地でもある。親近感を抱いていただいたのはいいが、あまりにもしつこかった。その証拠にそれ以外の言葉は覚えていない。というか、言葉になっていなかった。


■からんだあげく退散

ろれつが回らないくせに執拗(しつよう)に同じ言葉を繰り返し、こちらが説明しようにも、きちんと耳を傾けているようにも見えなかった。付き合わされるのは時間の無駄だし、我慢の限界に近づいてもきた。
「あの薬害エイズ問題で国民の心をつかみ、名をはせた政治家なのか」。そんな思いも頭の中をめぐっていた。
「いいかげんにしてもらえませんか」。意を決して伝えた。すると菅氏は露骨に不機嫌になり、しばらくすると店を出ていってしまった。
「下手を打ったな」。再び2人きりになった店で知人がそうつぶやいた。菅氏を不機嫌にさせた私が悪いという意味らしかった。
ただ、こちらから菅氏に語りかけたことはなく、一方的にからまれただけだった。初対面の人にここまで不快な思いをさせられた経験はそうはない。
もっとも政治家といえども酔いたい夜もあるだろうし、虫のいどころが悪いときもあろう。だが、ここまでタチの悪い客ぶりをさらけ出してしまうとは、とあぜんとした。最初の民主党代表時代の女性スキャンダルに際し、伸子夫人が「あなたは脇が甘いのよ」と叱責したのもうなずける。


■官邸の主としても

昨年6月に菅氏が首相に就任してからも、この夜のことは時折思い出した。とりわけ東日本大震災と東電福島第1原発事故が発生して以降、思い出す頻度は増した。首相官邸の異様な光景が伝えられたからだ。
発生から1カ月たち、首相官邸の5階にある執務室は「開かずの扉」と呼ばれるようになっていた。原発対応をめぐり、政治家であろうと官僚であろうと、だれかれかまわず怒鳴り散らした結果、だれも執務室に寄りつかなくなったためだという。「肌感覚」でわかる気がした。
逆ギレすることも多かった。菅氏の指示が不十分で事態収束に手間取っているにもかかわらず、「指示はとっくに出した。なぜ進まないんだ」と不満を爆発させることもあった。「下手を打った」と知人に指摘された私も、逆ギレされたとの思いが強い。

不機嫌になると、さっさと店を後にしただけに「逃げ足」の速さも目の当たりにしている。

首相就任記者会見で自らの内閣を幕末の志士、高杉晋作にちなみ、「奇兵隊内閣」と命名し、その理由として「高杉は逃げるときも速いし、攻めるときも速い」と先に逃げ足に言及した菅氏。番記者のぶらさがり取材を1日2回から1回に減らし、大震災発生後は全く応じなかった。これでは「逃げ菅」と呼ばれても仕方あるまい。

「とりわけ自衛隊が国家、国民のために存在するという本義を全国民に示してくれたことは、指揮官として感無量だ」。退陣表明した記者会見で、菅氏は大震災と原発事故への対応に触れ、自衛隊の最高指揮官であることを唐突に強調した。

しかし、この言葉を「感無量」と受け止めた自衛官は皆無だろう。逆に、「改めて法律を調べたら自衛隊に対する最高の指揮監督権を有していた」という菅氏の「迷言」がよみがえり、多くの自衛官が白々しい気分になったに違いない。

よもやあるまいとは思うが、菅氏から「自衛官を慰労したい」と誘いを受けることがあったとしても、酒席をともにすることだけは避けるべきだと強調しておきたい。 (半沢尚久)

IZA 防衛オフレコ放談 2011/09/11 14:08 (引用)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/527433/

2011年9月3日土曜日

日本の相対的貧困率、過去最悪

日本の「相対的貧困率」が過去最悪になったそうですが、相対的貧困率ってなに? いま、なぜ、貧困が広がっているのですか?


低賃金の非正社員が増加

 相対的貧困率は、国民一人ひとりの所得を順番に並べ、中央の値の半分より低い人の割合だ。この場合の所得とは、収入から税金や社会保険料を差し引いた1人当たりの所得を指す。厚生労働省が7月に発表した2010年調査では、年間112万円未満が貧困になった。相対的貧困率は16%で、前回の07年調査より0・3ポイント上昇。1986年調査以降で最悪となった。


作図・デザイン課 安芸智崇


 経済協力開発機構(OECD)の調査では、2000年代半ばの相対的貧困率は、日本はメキシコ、トルコ、米国に次ぐ4番目の高さだった。

 日本では、一人親世帯の貧困率が際だって高く、50%を超える。貧困世帯の子どもの割合も高水準で、健康や教育への悪影響が心配される。

 日本の貧困率が高い理由の一つとして、女性の賃金が低いことが挙げられる。女性は、非正規雇用の中でも特に賃金が低いパートやアルバイトが多く、正規雇用の場合も、管理職への登用が少ない。一人親世帯の貧困率が高いのも、大半が母子家庭で、親の収入が少ないためだ。

 非正規雇用は全体的に増えており、貧困が拡大する原因になっている。正規雇用より賃金が低いだけでなく、景気悪化で仕事を失うことも多く、貧困に陥りやすい。

 貧困率をさらに押し上げているのが、少子高齢化だ。生活保護受給世帯のうち、半数近くが高齢者世帯。生活保護を受給している高齢者世帯の9割が一人暮らしだ。国民年金の平均受給月額は5万4320円(2009年度末)で、家族などの経済的な支えがないと、生活が苦しくなる。

 貧困対策として、政府の「社会保障・税一体改革」では、正社員を中心とする厚生年金や健康保険などの対象を非正社員にも広げる方針。また、仕事を探している人に無料の職業訓練や生活資金の補助を行い、求職を支援する。

 いったん貧困状態になると、再び生活を安定させるのは難しい。国や企業を始め、社会全体で、貧困に陥るのを防ぐとともに、貧困から抜け出すための支援に取り組む必要がある。(飯田祐子)

読売新聞 2011年8月30日 (引用)
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=46251


2011年9月1日木曜日

「東大の先生は買収されている」

根岸英一(パーデュー大学特別教授)スクープインタビュー
2010年ノーベル化学賞 根岸英一教授「東大の先生は買収されている」(週刊現代 2011年5月21日号)


原発を推進してきた科学者はフクシマの惨劇をどう考えているのだろうか。彼らはどこで間違えたのか。昨年、ノーベル賞を受賞、この国に栄誉をもたらした根岸教授は言いにくいことをズパリと言った。


原発は止めるべきです

「原発に頼ることを、この先はやめるべきです」
講演のために訪れたというアトランタのホテルのロビーで、2010年にノーベル化学賞を受賞したパデュー大学特別教授の根岸英一氏(75歳)は、静かに語り出した。

「いったん、福島第一原発のような事故が起きてしまうと、そう簡単には解決できません。また放射性物質漏れのようなことがあった場合に私たちがしなければならない心配事が多すぎます。しかも原発がある限りそれから逃れることができない。それだけ人を悩ませる原発に頼るのはおかしいでしょう。

電力不足になってしまうから、すぐにはできませんが、原発は止めなければなりません。たしかにフランスのようにエネルギー源の約8割を原発によって確保している国もありますが、日本とは環境が違います。フランスではめったに地震が起こらない。日仏両国を同じレベルで考えることはできないのです。

いまより原発を増やすことは絶対に反対します。結果的に何十年かかるかわかりませんが、原発は減らしていくべきでしょう」

科学者として、原発の抱える最大の問題点はやはり安全面にあると考えているという。

「兵器にもなるし、エネルギー源にもなるので、諸刃の剣です。原子力を使うときの一番の問題は、大きなリスクがあるということ。いままではこれといった産業がない町の住民が言いくるめられて、原発の建設を容認させられてきましたが、それを続けていいものかどうか。電力会社は、1回、2回は説得に失敗しても、3回目には認めさせて原発を造ってきたのではないでしょうか。

地域としては、経済的な理由で背に腹は替えられなくてやむを得ず容認してきたのでしょうが、これをそのまま続けてもいいのか、真剣に考えなければならない時期を迎えていると思います」

3月11日、地震が起きたとき、根岸氏は自宅のあるインディアナ州ウエストラファイエットではなく、横浜のベイシェラトンホテルにいたという。
「母校の(神奈川県立)湘南高校の同窓会をやっていた」ためだ。「かなりの揺れを体験した」わけだが、今回の福島第一原発の事故は天災によるものではなく、「人災」と捉えている。

「原発の立地をみてみると、想定が甘い。つまりこの事故は人災と言われても仕方ないでしょう。定められた安全基準が明らかに甘かったことは確かです。そして原発では今回だけでなく、過去にもいろいろ事故が起きています。そのこと自体が問題です。

さらに原発ではどう処理しても高レベル放射性廃棄物が残ってしまう。にもかかわらず、そのまま動かし続けていることもおかしいと思います」

だが日本のエネルギー供給量のうち、約3割が原子力によって支えられているという現実がある。そして、東日本大震災によって、東北地方と茨城県にある合計15基の原発がいまも停止しており、この夏には電力供給量が不足することが見込まれ、さまざまな形で「節電」が求められている。

根岸氏は、これからのエネルギー供給に関して考えるときには、発想の転換が必要で、節電には賛成できないと話す。

「今年の夏については緊急で仕方のないことかもしれませんが、節電をすることを前提に電力について議論することは本質的に反対です。節電はあまりに消極的な姿勢だと思います。

消費電力が小さくても同じ明るさが維持できる電球を作る ― これは節電ではなく、技術の進歩です。できるだけ電力を使わないようにしようというのではなく、技術革新の方向に向かうべきでしょう。

個人レベルの節電への努力も必要かもしれませんが、それに頼るのは誤りだと思います。電化製品もどんどん進歩するでしょうから、それを前提に電力消費について考えるべきです。もっと正攻法で解決法を探したほうがいい」


まず減らしましょう

根岸氏は「節電」を続けるより、日本が誇る技術力によって、従来の商品より消費電力量の少ない新たな商品を作り出したり、代替エネルギーの開発を急ピッチで進めたりするべきだと主張しているのだ。根岸氏がさらに具体的に説明する。

「原子力に替わるものとして太陽光、風力、波力、地熱、バイオマスなどに可能性があると思います。風力はアメリカでも比重が増えてきていますが、ドイツではすでに総電力の5%を占めるところまで伸びています。

日本の場合は面積が限られているので、平野に造るのは難しいでしょうから、丘陵地に建設するのがよいかもしれません。ただ景観を損ねるとか、維持費がかかるとか、いくつかの問題も指摘されています。

そんな点も含めて私がもうひとつ注目しているのは波力発電です。ただ、いまだに波の力を電力に替えることができていません。かなり前からなぜそれが実現できないのか、不思議に思っていました。これはエンジニアの責任です。もうすぐ実験段階に入ると聞きましたが、とっくに実用化されていてもおかしくなかったと感じています」

原子力に頼らない社会を実現するために、根岸氏が日本で実施するべきだと考えているのは、「スマートグリッド」だ。これは新しい機能をもつ電力網のことで、ITを活用して一定の地域内の電力の需給バランスの最適化やコストの最小化を実現するもの。根岸氏によればすでにアメリカではいくつかの地域で導入されているという。

「たとえばコロラド州ポルダーもそのひとつ。ここではそれぞれの家に太陽光発電のシステムを設置させて、これをコンピューターで制御して需給バランスを調整しているのです。実はポルダーで使われている技術は、日本のもの。だから日本でもこの方法を地域ごとに導入すればいいと思います。これが実現すると東電などの電力会社の利益は減ることになるかもしれません。でもそれは仕方ないことでしょう」

こうした新しい技術、システムを使って、日本は脱原発を進めていくべきだと、根岸氏は話す。

「いま日本は総電力量の約30%を原子力によって確保しています。まずこれを25%にすることを目標にして、次は20%と段階的に減らしていくべきです。その際、政府内に総合的に電力需給をみる機関を立ち上げ、地域ごとにたとえばここは太陽光、ここは波力と土地の特性を生かすことを考えたらよいでしょう」


科学者の責任

根岸氏自身が現在、取り組んでいるのは、「人工光合成」の研究である。これは、ノーベル賞を受賞したクロスカップリング反応でも使われる「特殊な金属触媒」を利用して、二酸化炭素から食料(米や麦など)や燃料(エタノールなど)を作り出すというものだ。これが実用化されれば、温暖化対策になるだけでなく、食糧問題やエネルギー問題の解決にも貢献することになるだろう。研究の進み具合について、根岸氏はこう説明する。

「この時点で、明確にあと何年でエネルギー源として利用できると言える段階ではありませんが、可能性のひとつとして考えていいと思います。この6月には日本で人工光合成の研究者たちが集まる会議を開く予定です。福島原発の事故発生により、結果的にこの研究への関心はかなり高まってきています」

今回の事故は、アメリカを始め世界中でここ数年続いていた、「原子力ルネッサンス」と呼ばれる原子力見直しの流れに水を差すこととなった。原発建設のラッシュを止めてしまったのだ。この点においても福島原発の事故は「地球規模」 の事故と位置づけられる。根岸氏はそのことに対する日本の責任についてはどう考えているのか。

「私は原発を減らすべきだと主張している立場なので、原発建設ラッシュを止めたことに日本が責任を感じる必要はないと思います。原子力ルネッサンスが終わったこと自体はいいことですから」

ただ日本にも反省すべきところがあると指摘する。
「日本のエネルギー政策がどこで間違えたか考えたことはありませんが、科学者やエンジニアが原発だけでなく、もっと他のエネルギーについて研究すべきだったと思います」

最近アメリカでも原発について聞かれることが多くなったという根岸氏は、日本の学者たちにも注文を付ける。
「東大の教授は東電に買収されています。そうすると公平にものを言えなくなる。だから、絶対に買収されてはいけません。私は買収されていないから、どこでも何に対しても自由に発言できるのです」

そして最後に自分たち科学者がいまやるべきことをこう示した。
「原発は減らしていかねばなりません。そのための科学者やエンジニアの努力はまだ足りないような気がします。だから、原子力に替わる危険ではない代替エネルギーの開発にもっと真剣に取り組むべきです。そうすれば必ず新しい何かをみつけられると、私は信じています」


SPEEDI 非公開の指示を出したのは誰か?

産経エクスプレス8月27日、枝野氏がSPEEDI 非公開を指示の記事。




















この記事のソースは官邸筋となっているが、今頃になって個人名が特定できない官邸サイドのスタッフと某黒幕の都合で、こういうリークが行われた事が問題だ。
3月11日からSPEEDI のデータは当然手元にあっただろうし、菅元首相が指示しなければ枝野氏は勝手にこういうことが出来ない小心者だ。
私達国民は、政府にとっては虫けら並みの存在なのだろう。
情けない。

淡水天然魚マップ 水道水を考える

淡水天然魚マップ
各地の淡水魚マップを見れば、水源地等を想定して飲料水がどこらへんまで大丈夫なのかが分かりそうだが、全く汚染されていないところは無いので、絶望的な気持ちになった。

2011年8月23日火曜日

なぜこれほどの尊い命が失われてしまったか

検死医が目の当たりにした“津波遺体”のメッセージ――高木徹也・杏林大学准教授のケース

 3月11日午後2時46分。東北地方を中心に大規模な地震が起きた。その後、現地を襲った巨大津波や原発事故により、2万人近くの人が亡くなり、行方不明となっている。

この日以降、多くのメディアは被災地の人々の「生と死」について、溢れんばかりの情報を提供し続けてきた。こうした報道の数々が、被災者を勇気づけ、復興への前向きな思いを高める上で、大きな役割を担ってきたことは言うまでもない。

しかし「なぜこれだけ多くの人が亡くならなければいけなかったのか」という核心に迫った報道は、意外に少なかった気がする。報道には、時として慎重な姿勢が必要となることも確かだ。だが、震災から5ヵ月以上が経った今、私たちはそろそろ震災がもたらした「生と死の現実」について、真正面から向き合ってみてもよい頃ではないだろうか。

災害はいつかまた、必ずやって来る。だからこそ、その真相に目を向けなければ、新たな災害に備えるための教訓を得ることはできない。

私は3月から、防災学者、警察、消防、自衛隊、さらには被災地の自治体職員、医師、そして遺族など、多くの「震災の生き証人」たちに会い、取材を続けてきた。なかには、「亡くなった人たちは必ずしも『天災』だけが原因で命を奪われたとは言い切れない」と感じたケースもあった。

この連載では、そうした人々が実際に体験したこと、感じたことをベースにしながら、震災にまつわる「生と死の現実」について私なりに斟酌し、今後の防災で検証すべき点を提言していきたい。



検死医が目の当たりにした「津波の遺体」
“避難慣れ”も災いして被害が拡大?


被災地に赴き検死に携わった杏林大学の高木徹也・准教授(筆者撮影)。

「検死した遺体の中には、多額のおカネを持っていた人がいた。多い人は、現金で2000万円ほど。ある人は有価証券報告書、ある人は土地の権利書も抱え込んでいた。津波が来たときには、これらを持って避難しようと考えて、家の中の1ヵ所に集めておいたのではないか。地震の直後に急いで探し出して身に付けたという感じではなかった」

法医学を専攻する高木徹也准教授(杏林大学)は低く、通る声で話した。私は、この言葉を聞いたとき、ここ数ヵ月間、悶々としていた思いが少し消えていく気がした。

高木氏は、不審遺体の解剖数が非常に多いことで知られる法医学者である。法医学・医療監修を行なったドラマや映画は、『ヴォイス~命なき者の声~』(フジテレビ系)など多数に及ぶ。3月11日の震災直後には、警察庁からの依頼で他の医師9人(そのうち、5人は歯科医)とともに被災地に入った。

高木氏は子どものころ、岩手県の宮古付近で生まれ育ったと前置きしつつ、こう続けた。

「この地域の大人は、これまでに何度も“津波が来る”と言われ、避難することに慣れていた。それでマンネリになり、今回も大きな津波は来ないと思い込み、逃げ遅れた可能性がある。もしかすると、“避難慣れ”が災いしたのかもしれない」

多いときは体育館に1日200もの遺体が
毎日のように日没まで続く検死作業


避難所のあり方は、今後の防災のためにも議論されるべきであるが、一方で住民の避難意識も検証したほうがいいと私は思う。

震災当日、住民が津波から避難する意識や姿勢に油断があった可能性があることは、3月、5月、6月と被災地に取材で赴き、消防団員や現地の住民から耳にしていた。こうして亡くなった人たちの生身の姿が報じられないと、その教訓を今後の防災に役立てることはできない。

津波襲来後、高木氏が自ら撮影した被災地の状況。尋常ではない被害の様子は、住民がいかに大きなリスクに晒されたかを物語っている。写真は上から気仙沼、釜石、宮古。

高木氏が警視庁の緊急車両に乗り、都内から宮城県に向かったのは3月13日の夕方。宮城県内の海外沿いの道路などは破壊され、交通規制がなされていた。停電も続いていた。そこでJR山形駅前のビジネスホテルに他の医師とともに泊まった。そこから毎朝7時に警察車両で宮城県警察本部(仙台市)に向かった。

県警本部に着くと、高木氏らは、警察とミューティングを30分ほどかけて行なう。そこで、それぞれの医師が担当する遺体安置所を決める。そのうえで医師らは別々の警察車両に乗り、安置所に向かう。

その頃、県内には南三陸、気仙沼市、亘理(わたり)町などに10ヵ所ほどの安置所があった。その多くは、中学校や高校の体育館だった。震災直後ということもあり、付近の海外沿いを見ると、漂流物に混じって多数の遺体が浮いていたという。

安置所は卓球台をついたてにして、遺体を安置する場所、検視を行なう場所、身元確認をする場所などに区切られていた。震災の日より3~4日後から、親や子どもなどを探しに来た人たちが遺体を見つけては、泣き崩れていたという。検死は毎日、日没の午後4~5時頃まで続けられた。これ以降は停電のため、できなかった。

遺体は、自衛隊や海上保安庁、警察、消防などにより運ばれてきた。多いときには、1日で体育館に200ほどの遺体が並んだ。

まず、警察が泥にまみれたままの遺体の写真を撮影する。その後、学校のプールなどの水で泥を浅い流し、さらに顔のアップなどの撮影。そして、身元確認が行なわれる。ほくろや手術痕などの身体的特徴だけでなく、身に着けていた運転免許証や健康保険証なども、手がかりになるという。

この際、何かの事件に巻き込まれていないかなど万が一に備え、入念に調べられる。ここまで時間は約30分。その後、高木氏らによる検視が15分ほど、そして歯科医による歯科所見採取へと続く。県内の解剖施設は、地震や津波により破壊されていたために、ほとんどの遺体は解剖されなかった。

胸部圧迫、窒息、凍死、外圧――。
溺死の背景には複合的な原因があった


高木氏は、1週間で130ほどの遺体を検死した。新聞などでは「遺体は高齢者が多かった」と報じられていたが、子どもの遺体も少なくないと映ったという。

多くの遺体を診ていくうちに、共通する特徴を見つけた。それは、顔がうっ血している遺体が多いことだった。がれきなどが速い速度でぶつかり、胸部や腹部が圧迫され、頭部から心臓に血液が還らない状態に陥ったためと思われる。

「海や川、プールなどで亡くなる溺死とは、遺体の状況が違った。これら狭義の意味での溺死は、気道に大量の水が一気に入り込み、呼吸ができなくなり、死亡する。今回の場合は、9割以上が津波による溺死ではあるが、それに複合的な要因が重なり、亡くなったと診断できるものだった」

その複合的な要因とは、主に次の4つのものだという。これらの要因のうち、いずれかがほぼ全ての遺体に見られた。高木氏は検死の際、遺体がこれらのうちどれに該当するかを診ていく。

1つは、胸部圧迫による死亡。圧迫を与えたものとして考えられ得るのは、たとえば船や車、家、がれき、さらに押し寄せる波の水圧など。これらが胸や腹部に時速数十キロのスピードで当たり、呼吸ができなくなった可能性がある。

2つめは、一気に大量の水を飲み込むことでの窒息。3つめは、いわゆる凍死。当日、津波に襲われた後、冷たい波の中で木などにつかまり救援を待ったが、寒さで体温が下がり、息を引き取った例がこれに該当する。

4つめは外圧によるもの、たとえばがれきが頭に当たり、脳挫傷などになり死亡したことが考えられる。

ここで、私は尋ねた。震災直後から新聞で「消防団員が避難を呼びかけている最中、ハンドマイクを握ったまま、亡くなった」と報じられていたことについてだ。本当にこのようなことが起きるのかを知りたかった。高木氏はこう答えた。

「推測ではあるが、2つの理由が考えられる。1つは、即死。プールなどでの溺死ならば手足を動かし、もがくから、手に持っているものも放す。今回は、堤防を破壊するほどの水圧で押し寄せてくる津波だった。あの波が直撃すると、心臓や肺など循環器に障害が起きて即死になることは想像できる」

「もう1つの理由は、即時死後硬直(そくじしごこうちょく)。死後に体が硬くなる、いわゆる死後硬直は息を引き取った後、2~3時間に始まる。今回は非常に強い、精神的なストレスにより脳に障害が起き、死の瞬間に硬直した可能性がある。それにより、たとえばハンドマイクを握ったままの姿で亡くなったとも考えられる」

丸太につかまった犠牲者の不思議
遺体の姿は“場所”によって違う?


私は、こんな問いかけもした。「丸太につかまったまま、亡くなっていた遺体があったと報じられたが、これは医学的にあり得るのか」

それは凍死による、即時死後硬直の可能性があるという。「私が診た遺体の中にも、がれきに挟まり、水の中で身動きが取れないまま、凍死したと思われるものがあった。あの日の水温や気温は低く、凍死してしまったのだろう。その場合も、何かにつかまったままの姿で硬直することは考えられる」

多くの遺体の服は脱げてはいないものの、泥が大量についていた。高木氏は安置所のことを振り返りつつ、語る。

「1枚を脱がすと、泥。もう1枚脱がすと、また泥がついていた。特に高齢者は7~8枚と厚着をしていた。だから、泥だらけになっていた。近所に住むお年寄りたちで“避難所は寒いから逃げるときは厚着をしよう”などと話し合っていたのではないか」

遺体の中には、体が引き裂かれ、足や腕だけになっているものもあった。「部分遺体」と言われるものだ。ショベルカーなど重機でがれきの処理をするときに、体を割いてしまった可能性もあるという。このような死後損壊を除けば、実際には損傷は少なく、顔貌や体格が判別できる遺体が多かった。

津波で家や車まで流れてくるとは――。
住民も気づかなかった「本当のリスク」


高木氏は多くの遺体から感じ取った“私見”と述べたうえで、次のような興味深いことを話した。これは、新聞などではあまり報じられないことである。

「宮城県北東部にある牡鹿半島(おじかはんとう)よりも北に位置する気仙沼市や南三陸町、女川町などでは、遺体の傷は比較的少なかった。このあたりはリアス式海岸ということもあり、津波の波は高く、その水圧で亡くなった人が多いように思えた」

「一方で、南にある地域では、津波が流れてくる流速で亡くなったと思える人が多かった。田園地帯が多く、波をさえぎるものがなかったために、一段と加速したのではないか。足が切れて無かったり、頭が割れていたり、胸にがれきが刺さったままのものがあった」

私が被災地に行き、津波から逃れた人に聞くと、こんなことを話すことがあった。

「津波は、波だけだと思っていた」「家や車が流されてくるとは想像できなかった」

この地域に住みながらも、意外と津波の実態を知らないのだ。今後は、想定され得る高さだけでなく、その勢いや水圧、さらには考えられ得る被害などにも踏み込んで、津波を理解する必要があるように思える。そして、津波の怖さを実感として心得るようにしていくべきなのではないだろうか。

津波で身元不明者が多かった理由
検死医の心に今も引っかかるもの


高木氏らは、2回目の検視として5月下旬に岩手県に向かった。1回目、震災直後に宮城県で検死を行なったときから懸念をしていたことがあった。それは、顔がうっ血した遺体が多かったことだ。

「時間が経つと、遺体は腐り、身元がわからなくなる可能性がある。特に血が滞ってうっ血しているところは腐りやすい。顔がわからないと、一段と身元の確認が難しくなる」

その懸念は、現実のものとなった。遺体を診ると、顔から腐敗が進行しているものがいくつもあった。

検死で訪れた大槌(おおつち)町では、犬や猫など動物などとの区別が難しい遺体もあった。この町では、津波が押し寄せたときに火災が起きた。

「焼死体の遺体があり、小型犬ぐらいの大きさになっていた。砂利が混ざった炭のようになり、身元や死因はなかなかわからなかった」

阪神大震災の場合は、ほとんどの遺体はその家の中で見つかった。だが今回は、自宅などからかなり離れたところで発見されることが多い。これが、身元不明者が多い理由の1つと考えられる。

高木氏は検死を終えた1週間程は、体の具合が悪かったという。遺体のことを思い起こし、夢にその姿が出てくることも続いた。

そして全ての遺体が忘れられないと言いながら、「心に強くひっかかるのが、石巻市(宮城県)の幼稚園に通う5人の子どもたちの遺体だ」と話す。当日、この子たちが乗った送迎バスは津波に呑まれ、炎に包まれた。

「黒く焦げた、小さな体が折り重なるようになっていた。同じような背丈だった。かすかに残る服などから、身元の確認をしようとした」

報道(朝日新聞8月4日朝刊)によると、この子どもの母親たちは当日の真相解明を求めるために、弁護士らと今後の対応を協議しているという。

私は、遺族のこの動きは好ましいと思う。被災地で多くの死を見てきて、津波から避難する際の意識や姿勢はもっと検証されなければいけない、と考えているからだ。すべての死を「天災だから仕方がなかった」とか、「1000年に1度の津波だから止むを得ない」として責任の所在をあいまいにすることは、今後の防災の役には立たない。

最後に、高木氏は自衛隊、警察、消防などの働きを称えた。

「特に自衛隊には、心を打たれた。震災直後はまだ気温が低く、雪が降ると土砂が凍る。そのため遺体の捜索ができず、それまで捜索にあたっていた自衛官は遺体安置所に赴き、黙々と検死の補助作業をしていた。遺体を運び、体を水で丁寧に洗っていた。10代と思われる自衛官もいた。それを見ていて、こみあげてくるものがあった。遺体に関わる者として、心より敬意を表したい」



“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得


高木徹也准教授(杏林大学)の話から、私が感じ取った今後の防災を考えるうえで検証すべき点は、主に以下の3つである。

1、避難所の体制を整え直す

高木氏の検視によると、高齢者の中には厚着をしていた人がいたという。また、多額のおカネを持ち運ぼうとしていたケースがある。これらが、津波からの避難を遅らせた一因とも言える。

今回、被災した地域の多くの避難所には、食料、水、そして石油などの燃料、トイレなどはある程度は備えられていた。だが、事前の想定を上回る人が押し寄せたことで、足りなくなった。たとえば、陸前高田市(岩手県)の中学校では、震災直後、校内に石油ストーブが2つしかなかったという。そこで教室のカーテンなどを取り外し、避難者の体に巻くことで寒さをしのいだ。

今後、避難所の体制は整え直すことが急務である。さらにそれを住民に実際に見てもらう機会を設けるなど、啓蒙も必要だろう。震災以降、すでに文部科学省は全国の学校をその地域の防災拠点として整備する方針を固めている。特に東北の三陸沿岸や四国などの津波常襲地帯は、対策を急ぐことが大切だ。

2、避難意識を一段と高める

震災当日、住民らの避難が徹底されていたかと言えば、必ずしもそうとは言えない。たとえば、記事の最後にある、石巻市(宮城県)の幼稚園に通う5人の子どもたちが死亡した例などだ。ここは私も足を運んだが、丘の上に幼稚園があり、そこが明らかに安全とわかる。それにもかかわらず、園は大津波警報の発表後に送迎バスを出発させた。1台が津波に巻き込まれ、乗っていた園児5人が死亡した。

これらの理由の1つには “油断”もあるのかもしれないが、この地域は今後も大きな地震や津波に襲われる可能性が依然としてある。他の津波常襲地帯も同じであるが、やはりマンネリを打破し、緊張感を持った避難にしていく必要があるのではないか。

そのためには、津波から逃げることをごく当たり前の「文化」にしていくことが大切だ。そうすることで、マンネリを防ぐことにつながっていくのではないだろうか。教育現場などで小さいころから津波からの避難を教え込み、津波常襲地帯の「文化」にしていくことが大切である。

3、遺体から津波の実態を理解する

遺体にまつわる話は、タブー視されている傾向がある。震災から数ヵ月が経つにもかかわらず、津波に巻き込まれた遺体はどうなっているのかなど、踏み込んだ記事はほとんどない。

私は興味本位で遺体について報じることには反対だが、津波に巻き込まれたらどうなるのかといったことは伝える必要があると考えている。ところが、遺体については新聞では「がんばった表情だった」とか「眠るように死んでいた」という表現が目立つ。

これで、多くの人は津波に対しての恐怖を感じるだろうか。いたずらに恐怖を煽るのは問題があるが、自然災害の恐ろしさは事実に即して伝えないといけない。メディアはこのあたりにつき、「自己規制」していないだろうか。

読者は、高木氏の話から何を感じとっただろう。なぜ、ここまで大きな被害が出たのかを冷静に検証することこそ、いま必要なのではないだろうか。


野呂美加さんと放射能対策 菊池誠氏

日本は、原発災害は、想定外の津波と地震の組み合わせで、ひき起こされたと主張している。だが新たな証拠は、日本の原子炉は事故を起こす運命にあったことを示唆している
The Independent
David McNeill in Tokyo and Jake Adelstein

水曜日、2011年8月17日

(写真のキャプション:国際原子力機関の事実調査チームのリーダー、マイク・ウエイトマンが、事故後11週目の5月に福島第一原子力発電所の損傷を検査)

それは日本で進行中の原発事故ミステリーの一つだ。津波が襲う前に、3月11日の地震は、福島第一原子力発電所に対して、一体どれだけの損傷を与えたのだろう?

リスクは高い。もし、地震が、原発と、核燃料の安全性を、構造的に損ねたのであれば、日本中のすべての同様な原子炉を停止する必要があり得るのだ。54基のほぼ全ての原子炉は、休止中(35基)か、あるいは、来年4月までに停止予定であり、原発再稼働に関するあらゆる論議に、構造的な安全性の問題がのしかかっている。

この議論において、原発の運営者である東京電力と、日本政府は、とうてい信頼に足る裁定者とは言えない。3月11日後の数日間、"メルトダウンはしていない"と、政府のスポークスマン、枝野官房長官は繰り返した。東京電力の当時の清水正孝社長は、周知の通り、容易には信じられない発言として、後刻、"想定外の事故だった" と語った。事故から五ヶ月たって、枝野官房長官が話していた時点に、メルトダウンが既に起きていたことを我々は知っている。想定外どころか、事故は業界の評論家達によって、繰り返し警告されていたのだ。

何ヶ月もの嘘と虚報の中、定着している話が一つある。地震こそが原発用の電力を損壊し、原子炉6基の冷却を止めた、というものだ。津波が、そこで40分後に、原発の予備発電機を押し流し、あらゆる冷却を停止させ、世界で初めての三重メルトダウンを生じさせた、一連の出来事を引き起こしたのだ。

津波が施設に到達する前に、もしも再循環水配管と冷却水配管が地震の後で破裂していたらどうだろう?電力が停止する前に?建設後40年の老朽第一号炉、日本で依然稼働しているお祖父さんの古炉形に詳しい人々で、これに驚く人はまれだ。

破損して、劣化しつつある、きちんと修理されていない配管と冷却装置の問題は、長年指摘されていた。2002年9月、東京電力は、極めて重要な循環水配管の亀裂に関するデータの隠蔽を認めた。この隠蔽を分析した、原子力資料情報室は、こう書いている。"隠蔽された記録は、再循環配管として知られている原子炉の部品の亀裂に関係している。これらの配管は、原子炉から熱を取り出すために取り付けられているものだ。もしこれらの配管が破裂すれば、冷却液が漏出する深刻な事故となる。"

3月2日、メルトダウンの9日前に、政府の監督機関、原子力安全・保安院は、再循環ポンプを含め、原発機器の極めて重要な部分の検査をしそこねていることに対し、東京電力に警告した。東京電力は、検査し、必要があれば修理をし、原子力安全・保安院に、6月2日に報告するよう命じられていた。現時点では、その報告書は提出されていないようだ。

インデペンデント紙は、原発で何人かの作業員と話したが、皆、同じような話をくり返した。津波が襲う前に、配管と、少なくとも原子炉の一基に、深刻な損傷が起きていた。今でも事故が起きた原発で働いていたり、関係したりしているため、全員が匿名にしてほしいと希望した。事故が起きた日に、福島原発にいた保守技術者の作業員Aは、シューと音をたてて、洩れる配管を思い出している。

"ばらばらになる配管をこの目で見ましたし、原発中では、もっと色々壊れているだろうと思います。地震が原発内部もかなり損傷させたことに疑問の余地はありません... 一号炉タービン建屋の壁の一部がはがれ落ちるのも見ました。あの亀裂は、原子炉に影響したかも知れません。"

原子炉壁は極めて脆弱だと、彼は言う。"炉壁が余りに堅牢だと、内部からのわずかな圧力で、ひびが入る可能性があるので、壊れやすく作られている必要があるのです。もし内部で圧力が維持されれば...内部の機器を損傷する可能性があるので、圧力が逃げられるようになっている必要があるのです。危険な時には、たわむように設計されているのです。そうでないと、もっとひどいことになり得ます。他の人々にとっては衝撃的かも知れませんが、我々にとっては常識です。" 30代後半の技術者で、やはり地震の際に現場にいた作業員Bはこう回想する。"地震は二度襲ったように感じられ、最初の衝撃は余りに強く、建屋が揺れ、配管が曲がるのが見えました。数分間のうちに、配管が破裂するのを見ました。壁からはがれ落ちるものもありました...

"誰かが、皆避難しなければだめだと叫びました。けれども、冷却水給水用配管だと思われるものを含め、何本かの配管がひび割れしているぞと言われ、私にも見えたので、私は避難しながら、大変に心配でした。それは、冷却液が原子炉炉心に到達できないことを意味しています。もし十分な冷却液を炉心に送り込めなければ、炉心はメルトダウンします。原子力学者でなくても、そんなことはわかります。" 車に向かって進む際に、第一原子炉の建屋の壁が崩壊し始めるのが見えた。"穴があいていました。最初の数分間、誰も津波のことは考えていませんでした。私たちは生き残ることを考えていました。"

地震が原子炉に大きな損傷を引き起こしたという疑念は、数分後に、原発から漏れた放射能についての報告によって強化される。ブルームバーグ通信社は、午後3.29、津波が襲う前、原発からおよそ1.6キロの所で、放射能警報が鳴ったと報道している。

地震が、原子炉に対して、直接的な構造上の損傷を引き起こしたことを、当局が認めたがらない理由は明白だ。「東京電力: 帝国の暗黒」の著者、恩田勝亘氏は、こう説明している。政府や業界がそれを認めれば、"彼らが運用しているすべての原子炉の安全性にまつわる疑念が生じます。彼等は、同じシステム上の問題、同じ配管損傷を抱えた、多数の古めかしい原子炉を運用しているのです" 地震は、もちろん日本では日常茶飯事だ。

元原発設計者の田中三彦氏は、3月11日に起きたのは、冷却液損失事故だと説明している。"東京電力が公開したデータは、地震から数時間後の、冷却液の膨大な喪失を示しています。これは電力喪失のせいにはできません。既に、冷却装置には大変な損傷があったので、津波が到来するずっと前から、メルトダウンは不可避だったのです。"

公開されたデータは、地震直後機、午後2.52に、AとB系統両方の緊急循環冷却装置が自動的に起動したことを示していると彼は言う。"これは、冷却液の喪失が起きた場合にのみ、起こります。" 午後3.04から3.11の間に、格納容器内部の水噴霧装置が起動した。田中氏は、これは他の冷却装置が駄目な場合にのみ、使われる緊急対策だと言う。午後3.37頃に、津波が到来し、すべての電気系統を破壊する頃には、原発は、既にメルトダウンに向かって進んでいたのだ。

原発の現場検査を行い、東京電力のデータ改竄について、最初に内部告発をしたケイ菅岡氏は、事故が起きたことに驚いていないと語っている。日本政府宛の、2000年6月28日付け書面で、東京電力は、原発において、ひどく損傷した蒸気乾燥機を、彼が問題を指摘してから10年間稼働し続けていると警告した。政府は警告を二年間、放置していた。

"私はいつも単に時間の問題だと思っていました。" 事故について彼はそう語っている。"今は、自分が正しかったことが幸福と思えない、人生の一時期です。"

調査期間中、恩田氏は東京電力の原発で働いた何人かの技術者と話をした。一人は、配管が図面と合わないことがよくあったと語っていた。その場合、唯一の解決策は、重機を使い、配管を十分近くに引き寄せ、溶接して、閉じることだ。配管の検査は、ぞんざいなことが多く、近寄りがたい配管の裏側は無視されることが多かった。修理作業は大急ぎで行われる。必要以上に長く、放射能に曝されたい人などいないのだ。

恩田氏はこう補足した。"福島原子力発電所を初めて訪問した際、配管の蜘蛛の巣でした。壁や天井の、地上の配管。配管を跨ぎ、配管の下をくぐって歩かなければなりませでした。時には、頭を、配管にぶつけました。原子炉の熱を制御し、冷却液を運ぶ配管は、原子力発電所の静脈と動脈です。炉心は心臓部です。もし配管が破断すれば、不可欠な冷却水が炉心にまわらなくなり、心臓マヒになります。原子力の用語で、メルトダウンです。簡単に言えば、冷却液を運び、熱を制御している配管が破裂すれば、原子炉炉心は冷却できません。冷却液が炉心に届かないのですから。"

1977年から、2009年まで東京電力に勤務し、元福島原発の安全担当者だった蓮池透氏は、"福島原発の原発事故の緊急対策には、炉心冷却のために海水を使うという記述はありません。海水を炉心に注入は、原子炉を破壊することです。それをする唯一の理由は、他の水や冷却液が使えない場合です。"と語っている。

3月12日の夜明け前、原子炉の水位は急落し始め、放射能は上昇し始めた。当日午前4時過ぎに発表した東京電力の報道発表にはこうある。"格納容器内の圧力は高いが安定している。" 発表の中には、多くの人々が見落としている一つの記述が埋もれていた。"緊急冷却水循環システムが炉心内の蒸気を冷却していた。それが機能を停止した。"

午後9.51、社長命令で、原子炉建屋内は立ち入り禁止区域となった。午後11時頃、原子炉の隣にあるタービン建屋内の放射能レベルは、一時間0.5から1.2 mSvのレベルに達した。言い換えれば、メルトダウンは既に進行中だったのだ。このレベルだと、20分間、このレベルの放射能に曝されれば、日本の原子炉作業員の許容量5年分を超えてしまう。

3月12日の午前4時から6時のある時点で、吉田昌郎所長は、海水を原子炉炉心に注水するべき時期だと判断し、東京電力に通知した。海水は、水素爆発が起きてから数時間後、午後8時頃まで、注水されなかった。その頃では、おそらく既に遅すぎた。

3月末、東京電力は、"福島第一原子力発電所一号機の原子炉炉心状態"という題名の報告書中で、少なくとも、こうした主張のいくつかを 多少は認める方向に進んだ。報告書には、配管を含め、重要な設備に、津波前に損傷があったとある。

"これはつまり、日本と海外の業界による、原子炉は堅牢だという保障は、吹き飛んだということです" と、独立した放射性廃棄物コンサルタントで、グリーンピースと協力しているショーン・バーニーは語っている。"地震危険度の高い地域にあるすべての原子炉に対し、基本的な疑問が生じます"

バーニー氏が指摘している通り、東京電力も、冷却液喪失の16時間後、第一号炉爆発の、7ないし8時間前の、大量の燃料溶融を認めている。"こうしたこと全てを彼らは知っていたに違いありませんから、膨大な量の水で水浸しにするという彼等の決断は、太平洋への漏洩を含めて、更なる膨大な汚染を、必ずひき起こすものでした。"

地震によって、原発がどれほど損傷したのか、あるいは、この損傷だけが、メルトダウンの原因なのかは誰にもわからない。ただし、東京電力のデータと、目撃者の証言は、損傷がかなりのものであったことを明らかに示している。

蓮池氏はこう語っている。"東京電力と日本政府は色々説明していますが、辻褄があいません。彼等がまだ提供していない一つのことは、真実です。そうすべき頃合いです。"

記事原文のurl:www.independent.co.uk/news/world/asia/the-explosive-truth-behind-fukushimas-meltdown-2338819.html

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テレビは、川下り事故やばらばら殺人、あるいは茶番代表選のニュースばかり。
追求すべきフクシマの原因・責任・対策、スッカリかすんでいる。
知事が原子力マフィアの一員、泊原発の漫才再稼働に至っては、ただの垂れ流し。京都の皆様は東北の薪は放射能で危険で使えないといわれるが、すぐ近くに何基も立ち並ぶ放射能の巨塊・美浜・大飯・高浜原発を廃止しようと発想されなかったのだろうか?本当だろうか?
川下り観光船運営会社、捜査されたり、責任云々と報道されたりしているようだ。
フクシマ災害で、経産省や東電が捜査されたり、責任云々と報道されたりしたとは聞いたことがない。失敗学の先生による調査委員会は御用学者を免責する。失敗責任を明確にしなければ、防止対策などできないだろうに。莫大な被害をもたらした判断に責任を問わない犯罪者天国。

8月17日 泊原発の営業運転、交付金支給規則変更、韓国の原発事情について 小出裕章(MBS)
は、マスコミと違って、重要な事実が語られている。

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-27f6.html

「原発」に無力だった司法の状況

このほど結成された脱原発弁護団連絡会議の河合弘之代表が、8月9日に開かれたシンポジウムで、今年3月11日以前、原発差し止め訴訟が実に20連敗で全敗状態だったことについて、4点の理由を挙げて、分かりやすく説明しています。
一つ目は、数10年にわたり、数千億円が投入されて繰り返された「電力必要・安全キャンペーン」が国民と裁判官に完全に浸透していたこと。資源小国、原発必要論か国民を完全に籠絡し、裁判官は予断と偏見を持っていた、と。結果原発を危ないという人はありもしないことを大げさにいう変わった人、「狼少年」で、その弁護士も「狼少年」の弁護士だったとしています。

二つ目は、設置許可や、安全評価審査指針、耐震設計指針をパスしていればOKとなってしまっていた原発側の安全立証。

三つ目は、争点ごとに原発に有利な書証を絨毯爆撃のように出してくる山のようにいる御用学者の存在。これに対し、「御用学者ではない良心的な学者」を見つけるのは大変で、反論はゲリラ的なものにならざるを得なかった、と。

そして、四つ目は、行政の考え方を尊重すべしとする最高裁の裁判官に対する上からの締め付けと、裁判官のことなかれ主義、としています。

この状況が、福島原発事故で一変した、と河合代表は言います。原発キャンペーンの威力はなくなり、裁判官は住民側の警告の真実性を心と身体で感じ、許可や指針のパスがお墨付きにならない、と分かった、と。御用学者のいいかげんさは明らかになり、安易な認容判断を出して事故が起きてしまった場合の責任を考えて、慎重な姿勢に変わったとしています。

これが、まさに司法の場において、原発という存在がどうにもできなかった現実、別の言い方をすれば、危険な状態を回避するのに無力だった司法の現実であると思います。

逆に、推進する側からすれば、これが危険であるという主張を排して、原発を強行するために必要だった環境であり、ある意味、そのために作られた環境のようにもとれます。河合代表の指摘には、直接は挙げられていないものの、この環境を作るのに大マスコミが大きな役割を果たしていることはいうまでもありません。

それはある時は、前記国民籠絡キャンペーンで積極的な協力という形で、ある時は、真実や「狼少年」側の声を取り上げない不作為という形で、環境づくりに貢献してきたととることができます。

そして、やりきれない気持ちにはなりますが、冷厳な事実として受け止めなければならないのは、こうした不正義な環境がひっくり返り、司法がいわば正義に向かって機能し始めるためには、今回の大震災と福島原発事故というこの国の国民の被害と不幸が必要だった、ということです。

どんなことでもそう、それが現実といってしまえば、それまでですが、それでもこれは望ましい形ではない。いうまでもなく、国民の被害と不幸が発生するまで、この不正義な環境は、危険な状態のまま、事態の発生を回避できるのにしないまま、えんえんと存在しているからです。あの日、震災と原発事故がなければ、この国は今も間違いなく原発推進にひた走り、反原発派が連敗を続けていることを少し想像しただけでも、この環境の不気味さがより浮かび上がってくる気がします。

原発だけではありません。その規模、影響の大小違いがあっても、こうした作られた環境に阻まれ、司法でも社会でも、危険への警告が届かず、現状の政策が続く局面が沢山あります。そのいくつもの「必要・安全キャンペーン」に対しては、われわれができることは、時に権威に対しても疑い、「狼少年」にも耳をかし、自分の頭で考えることから始める意外にありません。

元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記 2011年08月23日09時44分 (引用)
http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-229.html

2011年8月18日木曜日

製造所固有記号(製造所固有番号)データベース

http://seizoushokoyuubangou.yummy.fm/

食品メーカーの工場の所在地のデータベース。
原料が何処から来たのかまでは分からないので、最後は自己判断となります。
それにしても食の安全管理というものは、本来ならば国や自治体が率先してやらなければならない事の筈なのにな。
やはり個人レベルでは限界がある。


2011年8月5日金曜日

福島第一原発、20キロ圏内の世界 野口健氏

http://blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/52166029.html

2011年7月29日

この記事に「見る事は知ること。そして知る事は背負うこと。」という件がある。
いい言葉だ。
現実を直視して次にどの様なアクションを起こすべきなのかをあらためて考える必要がある。

2011年7月26日火曜日

スマートフォン キャリアによっては年間最大12万円の差つく

 相も変わらず不況が続くいまだからこそ、節約をしたい。そのなかでも、流行のスマートフォンは年間最大12万円の差も出るというので、料金の実態をおさえておきたいもの。
 
 いま携帯ショップや家電量販店で売れている携帯電話の半数がスマートフォンだという。自分や家族がスマートフォンへの機種変更を考えているとき、とくに注意したいのは、通話時間。

 例えば、仕事などで月800分以上通話する「ビジネス型」の人の場合、月額利用料はドコモ1万4130円、ソフトバンク2万2700円、au1万2810円。最高値のソフトバンクと最安値のauでは月1万円以上、年間約12万円違ってくる。
 
 だが、月25分通話の場合、ドコモは7280円、auは6740円、ソフトバンクは6705円となり、この場合はソフトバンクがもっとも安い。また、通話料ナシの場合は、ドコモが7080円、auが6540円、ソフトバンクが5705円となる。
 
 家の電話を中心に利用する「主婦型」や、またはスマートフォンは2台目と考えて通信サービスだけ利用し、通話はいまある1台目の携帯でするという「2台目型」で価格は異なるのでそのへんをキチンとチェックしておこう。

Newsポストセブン 2011.01.07 17:00 (引用)
http://www.news-postseven.com/archives/20110107_9934.html

2011年7月23日土曜日

菅直人 終了まであと3日?

NHKにもユニークな人がいる様だ。このテロップには思わず苦笑。
ソース 知人からのメール 2011/07/21

2011年7月20日水曜日

産地偽装ジャガイモ

千葉県産のじゃがいもに長崎県産のシールを貼って発売されていたらしい。






















@ASCENSION_2012_
http://lockerz.com/s/121826140

農家の婿のブログ セシウム牛 

ええと、知り合いの会社に拾ってもらいました
実は、婿は元々事務屋さん
今は会社で事務全般をやってます。
行政書士を持ってるのに行政関連が一番弱点だったり
婿です

とうとう出てきてしまいました
セシウム牛
目先の利益を追うお上の汗と涙の結晶です
全く、これっぽっちも、一ミリたりとも価値の無い汗です
只今、行政農協一丸となって、信頼と信用を燃料に最悪へと突き進んでいます
この際だからはっきり言わせてもらいましょう

極めて純度の高い馬鹿ですね

わかりきっていたことです
野菜にしたって
検査体制と検体数を考えれば
どれだけ危ないものがスーパーに並んでいるか想像するのは簡単です

4か所の土壌調査でいわき市全面作付制限解除がなされたのと同じような感じで
ただ現物が目の前にある野菜が市場に流されていく
検査の結果、放射性物質は基準値以下です!

確かに大丈夫なものも多くあるんでしょう
でもそれに対しては一言言わなければ気が済まない
それがどうした?
目先の利益のために何を捨てているか、本当に理解しているのか
なんで農家の僕がこんなことを言わなくちゃならない
本当に意味がわからない

お上は農家に対してこう言うんだ
「きちんと検査するから、ダメだったら流通させないし、その分に関しては補償するから」
だから安心して作ってください     と
結果はどうだ
同じ牧場から検査以前に出荷した牛が流通して既に消費されている

なぜ彼が同業者に頭を下げなきゃいけない
なぜ彼の奥さんが報道陣に謝罪を繰り返さなければならない
自粛の道を現実的に閉ざして、背中を押して
ケツ拭き紙だけを、よく平気な顔で渡せるもんだ
有難過ぎて涙が出る
こんなのはそこらじゅうに転がってますよ

外に置いてあった藁を食べさせただけでこんな数値が出るのなら
同じようなことをしている農場が無いはずが無いです
そもそも牛がどれだけ餌箱を舐めるか、敷料のおがくずやワラにどれだけ鼻をつけるか
放牧方式を取り入れていたとしたら?
備え付けの水槽は?

補償が考えられない以上、現実的には出荷するしかない人がいて、
ダメだった場合には絶対流通なんかさせたくなくて
だから検査をしてくれるというからそれを信じて
なのに検査がなされていない
結果流通させてしまう

彼の「申し訳ない」という言葉は、きっと心からのものだと思います
だからこそ噛みつかずにはいられない
なぜそれを一農家に言わせるんだ
どう説明してもどう理解を求めても
これが続けば消費者の怒りの矛先はどうしても農家に向く

これはしょうがない
逆の立場だったら僕だってきっとそうだ
その結果、将来的に福島県にもたらされるものが何なのか
きっと小学生ですら答えにたどり着く

もし本当に行政と農協にそれがわからないなら
彼らは単なる馬鹿だ

もしそれを理解していながら行政と農協が動かないのなら
彼らは単なる犯罪者だ

有事の際に役に立たない行政なら必要無い
農家が一番大変な時に動かない農協なら存在価値が無い

地方自治体は市民のために存在するし
農協は農家のための組合組織だ

どこをどう間違っても東電と、補償額低減のために存在するわけじゃない

農家の婿のブログ
http://ameblo.jp/noukanomuko/entry-10950865799.html

2011年7月19日火曜日

「医師が見た被爆者の生と死~原爆被害、隠蔽と放置の12年間~」

被爆体験聞き書き行動第1回実行委員会

とき  2000年09月09日
ところ コーププラザ浦和
日本被団協中央相談所理事長 肥田舜太郎先生

1.はじめに

 こんにちは。肥田舜太郎という医師です。今日、初めてお目にかかる方もきっといることと思いますが、ご紹介いただいたように55年前、28才で陸軍病院の軍医をしていて原爆に遭い、戦後も引き続いて主に原爆被爆者の診療や相談をしてきた数少ない医者の一人です。いろいろ困難を抱える被爆者の相談に応じて、何とか被爆者の役に立つように、今日まで過ごしてきました。 私が何故、こういう医師の道を歩いたのか、何がそうさせたのか、振り返ってみますと、被爆者の、説明の仕様のない死に様に次々とぶつかってきた。今でもまだぶつかっているわけですが、その度に深く考えさせられ、現在の医学、医療では解明できない、治療法もわからない原爆病と縁の切れない医者が出来たのだと思います。

 今日は、被爆後から10年くらいの、最初の頃の話をしてほしいということで、ご依頼を受けた時から、何を話せばよいのか随分考えたのですが、私が、特に死んでいった被爆者にぶつかって、その度毎に自分が感じたことを振り返りながら、被爆とか、原爆とか、核兵器廃絶という問題を私がどう考えるようになったかということなども含めて、お話したいと思います。

 妙な話をしますが、私は32才の時、初めて生命保険に加入するよう勧誘されました。人の命を種に金儲けをする生命保険という会社が私は大嫌いだったので入らなかったのですが、勧誘した人が、その時に加入すれば私が83才の時には満期で幾ら幾らもらえるとか話したのが頭に残っていて、その時から自分の命は満83才までという考えが、なんとなく頭にこびりついてきました。

 今年がちょうど満で83才なので、どうも終りが近いらしいと感じたのかも知れません。勿論、それだけが理由ではありませんが、思いきって自分史というものを書き始めました。被爆の前、被爆した時のことは前にまとめたことがあるので、今度は、戦後、被爆をしてからのことを書いています。そうしたら、人には言えないような恥かしいことや、いろいろな難しいことも含めて、戦後四十年ぐらいまで書いてきて、自分をこうした人生の道に誘った節目には、何人かの被爆者の印象に残る死が関わっていることに気がつきました。

 そういう意味で、ちょうどいいタイミングで今日のお話の依頼を受けましたので、そういう切り口でお話をはじめたいとおもいます。


2.爆風と熱線による死

 私が一番、最初に被爆者の死にぶつかったのは1945年8月6日、原爆投下の1-2時間後でした。私はその日の早朝、たまたま6キロ離れた戸坂という村の農家に往診に出ていて被爆しました。藁葺屋根の農家は潰れましたが、火傷も怪我もせず、壊れた農家から這い出て、きのこ雲の立ち上る広島市内へ引き返しました。太田川の川沿いの道を、市内までちょうど半分のあたりで、市内から逃れてきた最初のその人に会ったのです。

 遠くから見た時は、 人間だと思いませんせした。近くで見ても人間には見えませんでした。真っ黒に焦げたドロドロの肉の塊で、腫れあがった大きな目と、口が顔の下半分の恐ろしい形相。それが私に手をのばして、目の前でばったり倒れました、あっ、人間だったと思って、近寄って「しっかりしてください」と言ったのは覚えていますが、あとは声もでなかった。脈をとろうとしましたが、手首には皮膚がない。この人、ぼろを着ていると思っていたら素っ裸で、剥がれた皮膚がぼろのように垂れ下がっているのです。おろおろしているうちに、ぴくぴくっと痙攣して、うごかなくなりました。それが私の見た最初の被爆者の死でした。

 猿喉川(広島市内を流れる太田川の七本の支流の一つ)の工兵橋、ここから先が市内というところまで行って、河原といわず、道路といわず、焼け爛れて、倒れている者、座っている者、死んでいる者、川を流れて行く者、どこを見てもまともな人間の姿は在りません。最初に感じたのは恐ろしいとか気の毒だとかということではない。感じたのは、無力感です。医者として自分にはすることがない。医者だから何かしなくてはならない。薬はありませんでしたが聴診器を当てるぐらいのことは出来たわけです。だけど何をしていいか分からないわけですよ。そんなことで間に合うような人は一人もいないわけですから。正直に言うと、どんどん死んでいく大群の中でぼんやりしていました。川へ飛びこんでは流されていく、その川の中に突っ立ったまんま、何にもしないでその様子をボーッとただ見ていました。軍医だから病院へ帰る任務がある。けれど火で市内には入れない。うろうろ迷って立っていました。

 そのうちに自分を説得して、こんなところにいてもしょうがない。この人たちはみんな村へ逃げるから、村に戻れば何か出来るに違いないと思って、手を合わせて詫びるように拝んで、戸坂村へ引き返しました。

 村の中はもう被災者でいっぱいでした。戸坂村でも大部分の家は爆風で壊れていますから入るところがない。乾いた道路とか農家の軒先の空き地、学校の校庭や役場の広場、乾いた土のあるところに被災者が転がって寝ています。後から来た被災者は、寝ている被災者、死んでいる人の上を乗り越えて奥へ行こうとしています。何といいますか、地獄としか言いようがありませんでした。

 次から次へ負傷者が村へ入ってくる。後で調べたら3万人入ったそうです、人口が約1800人という小さな村ですから入るところがありません。みんな乾いて地べたへ転がっていたわけです。

 一番、最初にやったことは治療ではなくて、食事を与える準備でした。私は軍医学校で戦地での軍医の仕事を習った時、「一度に大量の患者を収容したときは治療よりも先ず食事のことを考えろ」と教えられました。村長以下、村の幹部に命じて、村に疎開させてあった陸軍の米を出させ、むすびを沢山作らせました。ところがこれが失敗だった。顔が焼けただれて、むすびを食べられるようなのは一人もいない。それで慌てて、むすびを鍋に戻してグツグツ煮てお粥にしました。

 村民はその日、早朝から中学生以上が男女とも広島へ招集されていて、老人と小学生だけが村に残っていました。それで小学生を集めて、上級生の男の子二人にお粥を入れたバケツを持たせ、女の子にしゃもじを持たせて寝ている者の口にお粥を流しこむことから初めました。

 夕方頃、軍医が3人来て、私と一緒に応急手当をはじめました。今から思えばとても手当なんて言えるものじゃありません。乱暴そのものです。ガラスが方々へ刺さっている。三角に割れたガラスが、尖った方を先にして皮膚の下をクルッと回って刺さっています、それを狭い入り口から抜き取るのは大変な仕事です。切れた傷口は縫わねばなりません。道具がなく、一時は縫い針を火で焼いて、ヨ-ドチンキにひたした絹糸を通し、ヤットコ で挟んで縫合しました。

 どんどん死んでゆきます。一目見て、火傷がひどく、大怪我をしている者で死の近いものは一目で分かりますから、助かりそうもない人は避けて通る。今から思うと、医者として一番間違ったことでした。複数の患者に出遭ったら重傷者から治療するのが医師の倫理です。それを重傷者は目を逸らせて軽そうな人を選んで歩きました。

 そんな中で一人、目を逸らせ損なった兵隊がいました。私を必死に見つめるその人と目を合わせてしまい、思わずその人の傍らに膝をつきました。地べたにじかに倒れていました。ボロボロに破れた軍服のズボン、上は裸です。焼け爛れて呼吸も苦しそうでした。何もしようがない。顔を見ると左の頬だけが白く焼け残っていました。何となくそこへ私の手をもっていって、そっと触れたんです。そうしたら、カーッと目を光らせて見ていたのが、目の光がスーッと柔らかくなって。優しい人間の目になったんです。そしてカクンと頭が落ちて息が絶えました。私が手を触れたのが慰めになったのか、とにかく人間らしく死んだ、私にはそう思えた。今でもその時の夢を見ます。人間でなく、捨てられた物のように、無数の被爆者は死んでゆきました。


3.急性放射能症による死

 私たちが目を逸らせた重傷者は2―3日のうちに大半が死に、あとは、治療すれば助かると思えた負傷者で、これからは医者の働きどころと、多いに張り切った矢先に、生き残った負傷者の中から、不思議な症状の急病が出はじめました。

 熱が出とからと呼ばれて行って見ると、ポッポと汗を出している。四国の部隊から応援に来た軍医が体温計を持っていたので、それを借りて測ってみると5分計で1分も経たないうちに39度にあがりました。発熱なので口の中を見ると扁桃腺やその回りが真っ黒に壊疽をおこしている。普通、風邪などでは扁桃腺は真っ赤に炎症を起こすのが、真っ黒に腐りはじめている。身体の組織が生きながら腐って死んで行く病気です。傍にいたたまれないほど臭い匂いが特徴です。そのうちに、瞼の裏や鼻や口から血が出はじめた。何の血だろうと考えているうちにワーッと血を吐かれた。びっくりして、よく見ると火傷していない白い肌に紫色の斑点が出ている。死んでいった被爆者と同じです。そのうち苦しがった患者が頭に手をやったら、触れたところの髪の毛が取れてしまった。高熱、口中の壊疽、出血、紫斑、脱毛という、教科書にもない症状です。医者の誰一人も経験したことのない症状がでて、早い者は数時間、遅い者でも数日のうちに死んでしまいました。

 この爆弾は火傷と大怪我で人が死ぬだけでなく、ピカに当たった人はこういう病気のこういう死に方をするんだということを、医者だけでなく、被爆者もみんな3~4日の間に経験したわけです。「血がでて、毛が抜けたら駄目」。みんながそう思いました。これが後に分かった急性放射能症です。普通、内臓の病気は心臓とか腎臓とか肺臓とか、一つの臓器が病気になるのですが。ピカの強烈な放射線で多くの臓器が同時にやられてしまう。多臓器の同時発病という今までに医者が経験のしたことがない発病の仕方でした。しかし、そんなことも 10年も20年も経って分かったことで、当時は全く原因が分からなかった。こう言う死に方が被爆の年の暮れまでずっと続きました。


4.残留放射能による死(低線量放射線障害)

 ところが、当日は広島にいないで、直接、原爆に遭っていない人の中から、被爆者と同じ症状の病気になり、死ぬ者も現れて、私たち医師を動転させました。

 被爆の翌日から広島市内には肉親や知人の安否を尋ねる人たちが、ぞろぞろ焼け跡を歩きはじめました。瓦礫の原を、骨や生焼けの肩や半分崩れた頭蓋骨の上を踏んで歩きます。そのうちに、「負傷者はもし生きていたら、近在の村々に収容されている」ということが分かり、私のいた戸坂村にもこういう外来者が毎日、多数訪ねてきました。

 この頃には九州や四国の軍隊から多数の軍医や看護婦が薬や器材を持って応援に来てくれ、戸坂村にも医師の数は私をいれて29人になり、看護婦も100人近くになりました。しかし、総計で3万を越えたといわれる在村患者には、間に合うどころか手も足も出ない有様だした。この頃には小学校の校庭や役場の広場や大きな農家の前庭などの空き地に筵を敷き詰め、その上に日除けのよしずを張って直射日光を防ぎ、それが病床で、負傷者を寝かせていました。

 そんな中を尋ねてきた人が大きな声で「何々さーん」と大きな声で名を呼んで歩く。顔が焼けていて見分けがつかない者が多いので、名前を呼んで探すのです。稀に巡り会える者もいるし、「○○さんは、○○で見た」と消息の分る例もありましたが、無駄足を踏んで次の村に移って行く人が多かったようです。

 被爆をしていないのに、被爆者と同じ症状を出した症例に出会ったのは、2週間かそれ以上たったある日の午後でした。

 私の担当していた病室(村の中のある一画を自分の病室と決められていました)、部屋ではなくて、村の中の一画(道路や橋や樹木を目印に分けた)を担当病室として、毎日、看護婦を連れて回診するのです。その中に屋根の一部が壊れた土蔵があって、涼しいので重症患を入れていました。そこを一日二回、朝と昼、最初に回診していました。

 その日、朝は何もなかったのですが、午後の回診時に、土蔵の真中にきれいな着物を着た婦人が横たわっていました。着ている衣類で一目見て非被爆者と分ります。隣に寝ていた重症の兵士(3日後に死にました)が「軍医殿、お忙しいでしょうがこの奥さん、診であげて下さい。熱出しているから」といいます。昔の人は親切でしたね。本人は仰向けになって寝ているだけで何にも言いません。気分が悪かったんでしょう、きっと。

 私は殆ど不眠不休で、ろくに寝てもいません。忙しいのに風邪ぐらいでと内心思いましたが、傍によって口を開けて喉を見、胸を開けて聴診器を当て、「風邪だろうからこれを飲んで寝てなさい。二、三日でよくなる」と、解熱剤を一包渡して帰りました。その夫人は3日間、寝ていました。大したこと無いと思っていたので、その間、何も尋ねませんせした。4日目の朝、まだ寝ているので。気になって傍へ寄ってみたら、胸の合わせ目の白い肌に紫色の斑点が出ている。これはと思って、「奥さんはどうしたんですか」と聞きました。本人の言うには「一年前、松江で県庁職員の主人と結婚。直ぐに広島県庁に転勤になり、宇品に間借りしました。一年経ち、臨月になって七月初めに松江の実家に帰り、出産しました。ラジオが『広島に特殊爆弾が落ちて相当な被害が出た模様』と、それだけしか言わない。新聞も同じ文句が書いてあるだけ。心配していたら、広島から松江に逃げてきた人が『広島には誰も生きていない。家は全部焼けた』と言うのを聞き、心配になって出て来た」のだと言う。原爆が落ちて一週間目に広島の焼け跡に入り、宇品から県庁から爆心地の方をぐるぐる回って、一週間目に今度は村を歩き始めた。そして10日目に戸坂村へきて、土蔵の中で旦那と巡り合ったのだというんです。

 旦那の方は、早出して県庁の地下室で書類探しをしている時、いきなり天井が落ちてき下敷きになり、右大腿骨折で骨が外へ突き出る大怪我をした。地下室なのでピカには遭っていない。周りにいた仲間がみんなで担ぎ出してくれ、ぼつぼつ火が出始めた市内から逃げ出して、親戚だったこの家の土蔵で横になっていた。衛生兵が回ってきて、当時は包帯もなかった時なので、骨が突き出た太ももを無理やり引っ張って元に戻し。ぼろ切れを巻いて、竹の棒を当てて荒縄で縛ってくれた。これでも副木治療という応急手当なんです。「そのうちにくっつくから、歩けるようになったら這ってでも帰れ!とういうんで、後は何もしてもらえず、寝ているところへ奥さんが着たという次第です。奥さんは看病したくても本人が一応、元気なので、周りの重傷患者の手伝いをしてくれていました。

 そのうち熱が出始め、風邪だと思っていたら斑点が出てきた。私にも何が起こったのか訳が分りません。そうこうしているうちにだんだん悪くなって出血が始める、吐血する、下血する。髪の毛は抜ける。県庁で原爆に遭っている旦那の方は大隊骨折以外は何ともないのに、松江から爆発後一週間たって元気で出て来た夫人の方がおかしくなっている。旦那が気違いみたいになって。奥さんの看病をしましたが、 だんだん症状が重くなって、とうとう死亡しました。

 似たような症例は一人や二人じゃありません。死亡例は戸坂村では3-4例でしたが、発病者は多数ありました。当時、私たち軍医の間では、出血のあることから腸管伝染病を疑い、夜半、内密に死体解剖を行なって検査しましたが、チフスでも赤痢でもないことが確かめられました。

 今から思うと、後から市内に入ったこの人たちの症状は、体内に摂取した放射性物質からの低線量放射線による体内被爆に起因する慢性放射能症でしたが、それは二十年も経った後に分ったことで、加害者のアメリカは現在でもまだ、体内に摂取された放射性物質からの放射能は微量なので、人体には無害であると主張し続けています。


5.沈黙の中に

 私はその年の11月末、山口県の柳井市の伊保庄村に国立病院を作って、そこに被爆者を集めて治療を行ないました。広島から船で運んだ患者と、山口県各地に帰っていた被爆者が、国立病院ができたというので集まってきました。病院とは名ばかりで、建物は病室で七輪に薪をくべて暖房をとるような古兵舎だし、設備も無い、資材もない、食い物も薬も乏しい。米軍の直接占領下におかれた敗戦国で本当に惨めな状態でしてが、それでも必死になって患者を診療しました。

 重傷者の大部分は次々死に、家へ帰れる者は帰って行き、帰るところのない者だけが病院に残るようになりました。元気な者は点呼が済むと海岸で(病院の庭の先が海でした)一日中、魚釣をやっていました。

 そんな中に、無口で何にも喋らない患者がいました。どの医師が診察しても一言も口をきかない。病気は慢性腎臓炎。満州の大連の陸軍病院に入院し、内地へ転送されて広島陸軍病院に入院した患者です。腎臓炎は症状は軽く、食餌療法だけでの指示でしたが、入院後、6日目に原爆に遭いました。病室の中で被爆したので火傷もせず、偶然、私のいた戸坂村へ逃げ。結局、柳井まで一緒に行動したわけです。主治医の私が色々、聞いても「はい」とか「いいえ」とか短い返事をするだけで、何も言わないのです。分かっているのは名前だけ、どこの生まれか、戦地はどこへ行ったのか、何を聞いても返事をしません。

 それがある日、突然、自殺してしまった。首を吊ったんです。同室の者が早朝、便所に行って、表の松の枝に下がっているのを見つけ、大騒ぎになりました。理由も、何も分らず仕舞いのまま、形ばかりの葬儀があって、後は何事もなかったように海辺の病院の日が過ぎてゆきました。

 何ヶ月か経って、たまたま事務長と用談した時、「先生には話しておいた方がいいと思う」と、自殺した患者の話をしてくれました。そう言えば、自殺のあった日に、「親身になって診たのだから、死ぬくらいなら一言、相談してくれてもよさそうなのに」と事務長にこぼしたことがありました。 患者の遺骨を受取りに来た本籍の村役場の助役から聞いたのだが、他言は無用と断った事務長の話は、「患者は中国戦線に従軍中、間違って戦死の公報が役場に入った。家では葬式を出し、農家の長男の跡取だったので、彼の弟が嫂と結婚して後を継ぎ、子供も生まれている。そこへ彼が突然、生還してきた。事情を知った彼には帰る家はなくなっていたわけです。相談されても答えようのない、酷い話じゃないですか」「一言、相談してくれても」と自惚れていた私を叩きのめした一人の被爆者の死でした。


6.アメリカによる原爆被害の隠蔽

 昭和22年(1947年)、私は国立病院の医者でしたが、労働組合の役員をしていました。そんな私に広島の開業医の叔父から手紙が来ました。

叔父は宮島の傍の五日市で開業していました。終戦後、広島の被爆者がいっぱい受診し、外科医だったので私の知人や友人でガラス片を抜いてもらった者が沢山いました。

 私が労働組合の役員をしていると知って、私に厚生大臣に会って、「広島で生き残った医者は数が少ないし、被爆者の治療の方法が全く分らない。アメリカは被爆後、日本の各大学医学部が行なった調査資料を取り上げて持っている。それを公開してもらって欲しい。それと、治療法がわかっていたらそれを教えてくれるよう頼んでもらってくれ。アメリカは来年、広島に病院を作るらしい(ABCCのこと)。噂だが、そこでは検査だけをして治療はしないと聞いている。治療もするように厚生大臣に頼んで欲しい」と書いてありました。

 私は早速、厚生大臣に会いに行きました。当時の厚生大臣は林譲治という自民党の大臣で、私は団体交渉で始終、会っていましたから、その時も大臣が会ってくれて、こういうわけだと叔父の手紙を見せ、「GHQの担当の者に頼んで欲しい」と言うと、「そんなこと出来ない」と言下に断られました。天皇陛下でも簡単には会えないマッカーサー総司令官にそんなことが出来るか、と動こうとしません。それでも根気よく頼むと「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」といわれ、売り言葉に買い言葉というわけで私が行く羽目になりました。

 日比谷交差点の角の第一生命ビルに星条旗が翻っていて、正面玄関に衛兵が立っています。「軍医に会いたい」というと何かベラベラと英語で言われた。早口でよく分らない。「そのうちに「予約はあるか」と訊いていることが分り、「ない」というと「ダメ」と断られた。

 陸軍病院の営門でも兵隊に面会にくる家族に、衛兵は規定を教えて断るのですが、何度も来て顔馴染みになると人情が通って、中には入れないが、相手を営門まで連れ出して会わせることを知っていたので、何回も通えば道は開けると日参しました。三日目に同じ衛兵と顔を合わせ、「用件はなんだ」と聞くから「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「連れてきてやる」と昼食休みに若い軍医中尉を連れてきて会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて話すと。原爆関係は軍事機密でそんな問題は自分の権限外だと言う。困っていると、どうしてもと言うんなら上官に会わせるという。

 ちょうど朝鮮戦争が始まる直前でGHQが右傾化した時でした。占領直後、総司令部は日本を民主化するという任務もあって、労働運動を指導したり、農民組合づくりを応援したり、かなり民主的なメンバーが来ていましたが、朝鮮戦争を始める直前から右翼化が強まり、民主的な運動をしめつける方向に大転換した時期でした。

 呼び出されて会ったのは軍医の高官でしたが、医者なので紳士的に話をしてくれました。しかし結論は「資料の公開は不可能である。被爆者の疾病を隠蔽した事実も学会の研究を禁止した事実もない。念のため調査するから二週間待て」と言われた。やがて呼び出しがあり、「総司令部で調査の結果、隠蔽も禁止も全く事実無根である。従って、今後、そのような言動は一切しないように。万一、そのようなことを喋る時はその責任はお前が取らねばならない」と慇懃無礼に威嚇されて帰りました。

 猛烈に腹が立ちました。アメリカが落した爆弾で、死んだ者は別としても、なんとか助かっている者が診断もつかず、治療法も不明の病気で苦しんでいる。日本の学者が苦労して調べた資料を没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。理不尽な占領権力の傲慢さに、腹の底から憤りが全身に燃えあがりました。私はアメリカの無法と闘うため共産党に入ろうと決心しました。当時、被爆者の問題など、誰も相手にしてくれず、占領権力に真正面から立ち向っていたのは共産党しかなかったのです。


7.差別の中での死(昭和25年~30年)

 次に被爆者の死にぶつかったのは昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が始まった年。東京、杉並区の西荻窪で、労働者や貧しい人のための民主的な診療所をつくって活動していた時です。下痢が続くと言って通っていた、一見、すごく年寄りに見える男性患者がいました。職業はニコヨン。日当240円で市の失業対策事業(公園の掃除や道路工事)で働く日雇い労働です。16日勤めて手帳に判を貰うと、日雇い健康保険で無料で医療が受けられる。だから本人はどんなに辛くても無理をして16日は働くわけです。もう一つ、いつも首に手拭を巻いているのが特徴で、絶対にとろうとしませんでした。その患者がぱったり来なくなりました。中断してよい患者じゃないのです。看護婦が気がついてみんなで心配し、往診の途中にカルテの住所を訪ねてみました。ところが、その番地の辺は大きな農家ばかりで、なかなか分からない。漸く探しあてたのは、ある農家の鶏小屋でした。今は鶏のいない、トタン屋根だけの金網をはった鶏小屋の中に、戸板を敷いて、その上に煎餅布団を一枚敷いて寝ていました。一目見て、もうあまり長くない容貌です。相変わらず垢にまみれた手拭を首に巻いています。「もういいよ。分っているから取れよ」と言っても首を横に振ります。看護婦に大きい注射器とブドウ糖を直ぐ届けるよう診療所に電話をかけに行かせて、「もう誰もいない。私も広島の被爆者だから、首を見せなさい」というと、漸く手拭を外しました。予想通り、後頚部から右耳の下にかけて大きなケロイドです。やっと広島で被爆したことを話しました。

 当時は、被爆者であることを知られてプラスになることは何もなかった。まず周りを警察がうろうろする(被爆者は占領軍から広島・長崎のこと、被害のことなど、原爆に関することは一切、喋ることも書くことも禁止されていたので、地域によってはいつも警察の監視下におかれていた)。回りに人が寄らなくなる(病気がうつると言われた)。

 即刻、入院が必要でしたが、当時はこうした患者の入院できる病院などどこにもなかった。私が面倒を見るより仕方がないので、朝晩往診して大量補液を続けましたが、最後に死に脈を取り、本人の遺言通り、区役所の世話で無縁仏として葬りました。

 一ヶ月後、友人と言うのが訪ねて来て,患者遠藤某の被爆の模様が分かりました。彼は隊長以下十数名の特殊な通信隊員で、8月4日、原爆の落ちる2日前に満州から小さな船で広島の宇品に着いた。配属部隊の都合で船内に待機していて6日も朝、被爆した。隊長の命令で上陸し、西部軍司令部のあった広島城の付近で救援活動に従事、数日して発熱、下痢の始った数人の仲間と、大竹の海軍病院に送られ、入院した。一緒にいた仲間の兵は散り散りに退院して家に帰ったが、彼だけは帰る家がないからと言って残っていた。その後、音信が絶え、病院に問い合わせると昭和22年11月末に事故退院していて、行く先は不明だったという。そしたら彼と一緒にニコヨンで働いていた者から、遠藤が死んだという手紙が来て、先生に聞いたら最後の状態が分るだろうと、私を訪ねてきたわけでした。

 遠藤が軍隊復員後、直ぐに実家に帰らなかったのは、彼は養子で、養子に入った後に実子(彼の弟になる)が生まれ、養父母とも実子に相続させたくて、彼との関係が複雑、微妙になっていたのが原因らしいと、友人は推定していました。

 被爆者の過去には、被爆時はこうだった、ああだったいう、直接被爆時の話以上に、被爆してから後、どんな人生を送ったのか、そういう人生を送らざるを得なかった原爆との関わりをみんな持っています。ここを知らないと本当の被爆の恐ろしさをしることにはならないのです。熱かった、苦しかった、恐ろしかった、ケロイドができただけでは、人間と核兵器が何故、共存できないのかが繋がらないのです。


8.他の病名をつけられて死んだ原爆症の被爆者

 その次は昭和30年(1955年)。私が東京から埼玉県に移って2年目です。日本で最大の足袋の産地の行田市で、貧乏人でも親切に診てもらえる診療所を作ろうという運動が起こり、どういうわけか、是非、私にということになって、診療所を作りました。

 ところが3年目の春に共産党から市会議員に立候補することになりました。行田は非常に封建的な気風の強いところで、当時は社会党くさいというだけで馘になってしまう、行田では商売も出来なくなってしまうような街でした。社会党の市会議員もなくオール自民党の市でした。そこへ共産党を名乗って立候補したから、患者さんが押しかけて来て「折角、いい先生が来て貧乏人が助かったと思ったのに、共産党なんかで出たら村八分になって追い出されてしまう。市会議員なんかに出ないでくれ」というわけです。しかし止めるわけにはゆかないので、「必ず当選するから一生懸命応援しろ」と、頑張って3位で当選しました。

 最初の議会で、市長の市政方針への質問に、ある被爆者の死の問題を入れました。

 それは私が行田で診療を始めて1年目ぐらいのとき、近所の人から「首吊りが出た」と夜中に往診を頼まれました。駆けつけ人工呼吸をしてやっと、この世のものにしたのですが、事情を聞いても本人は何も話さない。この人も黙んまりのままなのです。

 小学校6年生くらいの女の子がいて、その子に聞くと、「お祖父さんとお母ちゃんがこの間、死んじゃった。お父ちゃんは貧乏でどうしようもない。病院で肝臓が悪いといわれた」と言います。それから色々調べたら18才のときに広島の観音町の町工場に勤めていて、爆心から4キロの自宅で、親子3人で被爆していた。その時の子どもは死んでしまったが、被爆した体で職もないし家もない。三次町で工場を始めた仲間がいて、働けるなら来いと拾ってくれ、何年か働いたが病気が出て働けなくなってしまった。奥さんの実家が埼玉県の行田市にあり、頼って来たわけだが。被爆者だったその奥さんが白血病で死んでしまった。そうこうするうちに、最後の頼りの奥さんの父親が脳出血で倒れ、あっという問に他界してしまい、知らない土地で頼れるものが誰もいなくなってしまったわけです。これでは生きていけないからと生活保護を申請したら、大きな仏壇を財産とみなされ、売れば当面,生活できるからと認めて貰えず、子どもに食べさせることもできなくなって自殺したということが分りました。

 私は市役所に、生活保護の申請に対してこういうむごい扱いをするとは何事かと抗議しましたが。厚生課長は「そういう事情は知らなかった。担当が厚生省の指示通りに、仏壇の処理を指示し、真面目に、規定通りやったと思う。結果がこういうことでは、もう一度、詳しく調査して,善処したい」というのが答でした。

 はじめての市議会で市長質問にこの問題を取り上げたのは、日本の社会保障制度の大黒柱である生活保護法が、厚生省大臣の国会答弁とは正反対に、一番下積みの国民の生活の現場ではどんな酷いことになっているかの事実を示し、自民党政府の上からの政治の支配を、地方自治体、市町村の市制、町政,村政が住民どう守らねばならないかを明らかにするためでした。

 当時は彼が被爆者だということが分っても、被爆者手帳もまだ交付されていない、医療法(「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」1957年、昭和32年)が出来る前のことですから何の特典もありませんでした。結局、生活保護を取って熊谷の病院に入院させましたが、肝硬変で亡くなりました。女の子は縁があって母子寮にいる私の患者で、小学生の娘を最近、失くした未亡人に引き取られてゆきました。

 被爆者がどんなに酷い目に会って死んで行くのかを、私はこの人の場合にも骨身に徹して教えられました。


9.死亡診断書が他病名になっている原爆病の被爆者

 同じ年の暮れです。行田の一地方新聞が「広島から来た気の毒な原爆被爆者が国の福祉行政によって救われず、終に死亡したことを共産党の市会議員が市議会で市長に質問して云々」いう記事を書きました。

 それを読んだ深谷にいた広島の被爆者が私を訪ねて来ました。彼は結核で某市の日赤病院にかかっていたました。被爆者であることを絶対に話さないでくれと妻から言われていたので医者にも言わなかったのだが、主治医が詳しく診察してくれないので、広島で被爆していて心配だと話したところ、「そんなことはあなたの病気に関係ない」と取り合ってくれない。行田には被爆者をよく診てくれる先生がいるというので私のところに来たと言います。

 この人は今日ここに来て居られる行宗一(はじめ)さんと関係があるのです。行宗さんは私が被団協の運動に参加した時は日本被団協の代表委員をしていた偉い人です。私のいた広島陸軍病院の直ぐ隣にあった西部二部隊の兵隊さんでした。たまたま行宗さんはできたばかりのコンクリート製トイレの中にいて助かったんですが、私を訪ねて来たこの人も二部隊の兵隊さんでした。本人は部隊長の当番兵で、あの日、兵舎の水道が壊れたので縁の下にもぐって水道工事をしていたそうです。そこへピカッと来て、600~700メートルの近距離ですから殆どの兵隊が死にました。本人はピカッと光ったと同時に崩れた兵舎の下敷きになってしまった。工具で隙間をあけて這い出たら、濛々とした埃で何にも見えない。だんだん晴れてくると兵舎も無ければ街もない。死体と怪我人の中を白島町から中山峠を超えて、西条(今の東広島)というところにあった親戚まで逃げて、しばらくそこにいてから、岡山の実家へ帰ったそうです。

 岡山には自分の嫂の妹が埼玉の深谷から遊びに来ていて。その人といい仲になって結婚したが、間もなく病気になってしまった。いつまでも兄のところに厄介になっているわけにゆかず、奥さんの実家の深谷へ来て療養をしました。瓦屋さんで手伝いをしたのだが、身体が思うようでない。日赤病院では結核といわれ、療養を指示されましたが、もう一つ納得が行かないので私のところに来たわけです。いろいろ調べましたが、私にはどうも結核とは思えず、ぶらぶら病症候群、原爆病のように思われました。胸部X線写真でも、腸の検査でも結核の病巣ははっきりしませんし、喀痰や尿の培養でも結核菌は検出されませんでした。最後は下血を繰り返して日赤病院に入院し、結局、亡くなりました。病名は腸結核でしたが、放射性起因の慢性血液疾患だった疑いが濃厚だったように思っています。

当時はまだ現在のような精密な血液検査ができない時期でした。

 以上のように私は多くの被爆者を診てきましたが、私が印象に残っている被爆者の死を綴ってゆくと、直接、高線量のピカにやられて、「あれじゃ助かりようはない」という死に方よりも、後から入市したとか、遠距離で僅かしかピカを浴びなかった、所謂、残留放射能に被爆して遅くなって死んで行ったという症例が多く、原爆で殺されたと証明する方法がない、口惜しい,歯がゆい死に方をした被爆者が強く印象に残っています。考えてみると、被爆者には、ひと目で被爆者と分る火傷跡やケロイドの目立つ障害者よりも、何んとも言いようのない不運を背負って、連れ合いからも,身内からも甲斐性なし、怠け者と思われながら、あまり幸せでない人生を歩かされてきた人たちの方が多かったように思われます。
 ピカを生き延びた被爆者がこうした不幸な死への道をたどらざるを得なかったのは、第一に、アメリカが対ソ戦略上の理由から、原爆被害の放射線障害をプレスコードをしいて隠し続け、被爆者に最も必要だった障害の研究と、治療法の開発の道を閉ざしたこと。第二には日本政府がアメリカの理不尽な圧力に屈して十二年間、社会の底辺で苦しむ被爆者を全く放置したことによると私は確信しています。


10.日本被団協が誕生し、被爆者は闘い続けてきました。

 ビキニの水爆実験(昭和29年、1954年)のあと、日本全国で原水爆禁止の署名運動が起こり、1930年に原水爆禁止大会が広島で開かれ、原水爆実験禁止の運動が公然と闘われるようになりました。その勢いに支えられて昭和31年(1956年)、長崎での第二回原水爆禁止世界大会の後、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が長崎で結成しました。埼玉県にも昭和32年(1957年)、秩父の被爆者小笹寿さんが埼玉県内にいる広島。長崎の被爆者を一人、一人,訪ねて探し出され、会を結成されました。当時はまだ県民の間に被爆者に対する理解が乏しく、警察による干渉と資金難から数年で無活動状態になって運動が中断しました、1973年(昭和48)に埼玉被団協(しらさぎ会)が再開されてからは、日本被団協の一員として「核兵器廃絶」「国家補償による被爆者援護法」の二要求を掲げ、県在住被爆者2400余名の約3分の1を組織して、活動を続けています。

 再建当時,平均年齢50歳前後だったしらさぎ会の主メンバーも、2001年現在では平均年齢75歳の高齢になり、この2―3年、急速に死亡者が増え、癌死亡が圧倒的に多いのは,覚悟していることとは言え,悲しい限りです。


11.被爆者の要求と政府の被爆者対策の対立点

(1)被爆者援護法
 被爆者は1931年の創立時から被爆者援護法を要求してきましたが、1984年11月[昭和59]「原爆被爆者の基本要求」を決定し、援護法の性格を「国家補償による被爆者援護法」と明確に規定しました。

 これは政府の諮問を受けた「原爆被爆者基本問題懇談会(基本懇)が「核戦争被害をも含めて戦争被害の『受任』を国民に強い、『原爆被爆者援護法』の制定を拒否した1960年(昭和58)の答申(意見)に対する批判を踏まえ、被爆者の基本的な願いとその実現の方法を明らかにしたものです。

 政府の被爆者対策は ①「戦争の被害は国民が受任すべきもの」②「原爆被害のうち放射線による障害だけを補償の対症にする」③「補償は国家保障でなく弱者救済の社会保障で行なう」を基本にしていますが、被団協は ①「人間として生きることも死ぬことも許されない原爆被害は到底受任できるものではない」②「原爆被害はからだ、こころ、くらしの全てに亙る障害であり、放射能被害に矮小化し得るものではない」③「原爆被害は『孫訴訟における最高裁判所判決』が『遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの』と規定した通り、被害者本人に全く責任のない被害である。よって弱者救済の社会補償によるべきではなく、あくまでも国家責任で行なうべきである」と主張している。


(2)原爆放射線の被害をめぐって
 更に放射線による被害についても、政府は被害を被爆放射線量によって区分し、アメリカが作定した距離別放射線量を示すDS86(最高裁判所が松谷裁判で「疑問があり、適切ではない」と判決)により、対象者を爆心地からの近距離直接被爆者に限定、残留放射線による内部被爆者の被害を無視してきたことに対し、被団協は被爆が直接であれ、間接であれ、原爆被害は被爆線量によって判定せず、被爆の状況と被害の実相を重視し、少なくとも癌に罹患した被爆者はすべ「援護法」の認定被爆者として認めるよう主張して、真っ向から対立しています。


12.被爆者に対する援護の問題について

 被爆者は日本被団協を結成して運動をはじめた当初から、各界、各層の団体,個人から限りない援助と励ましを受けてきました。これらの被団協に寄せられた支援と援助は「被爆者援護」という言葉で総称されてきました。核兵器廃絶を目標に掲げた日本原水爆禁止協議会(日本原水協)は1955年の結成総会以来、核兵器廃絶と被爆者援護を活動方針の主軸に掲げています。

 各種団体、個人から被爆者運動に寄せられた援護活動の最大のものは、なんといっても財政支援、資金援助でした。僅かな会費収入以外に財源のない中央、地方の被団協にとって、活動を通じて国民から集めたカンパ、寄付を含めて寄せられる各界からの多額の寄付が、今日まで被団協の活動を支えて来たと言って決して過言ではありません。

 援護は資金援助だけでなく、困窮する被爆者への相談から高齢被爆者への手編みの肩掛け、膝掛けの贈呈など、こころ温まる善意の援助がよせられました。

 こうした援護活動が長く続けられてきた結果、「被爆者援護イコール金品の寄付」という図式が固定してしまったような嫌いがあります。今日、高齢化した日本被団協は組織が弱体化し、財政的にも困難が増大していますから、今後も引き続き寄付に異存せざるをえないことは当然ですが、もう一つ、重要な「援護」があることを述べておきたいと思います。

 今、被爆者手帳を持って生き延びている被爆者は全部で29万人余ですが、そのうち被爆者の会に所属して、被爆者という自覚を持ち、なんらかの活動に参加するのは10%以下だろうと推定され、被団協新聞の定期購読者も2万人前後にすぎません。

 残念ですが大部分の被爆者は、今日でも被爆者であることを隠し、子供や孫にも内緒にして暮しています。就学、就職、結婚、出産など人生の節目,節目に、被爆者であるために加えられてきた不当な差別と疎外の苦しみを二世,三世に味合わせたくないとの思いが消えないのです。

 若し、この人たちが挙って被爆体験を語り、核兵器の悪を暴いて、原水爆禁止運動の中に加わっていたら、被団協はもっともっと大きな力を発揮できたであろうと、歯がゆい思いでいっぱいです。

 被爆した事実を隠すということは、人間として自由に生きる権利を自分から制限し、ナチスの強制収容所と並んで今次世界大戦の最大の人権侵害と言われる原爆攻撃に頭を下げ、屈服してしまうことを意味します。このような人たちは自分一人では「原爆は黙っていること」という呪縛から抜け出すことができません。みなさんから、是非、被爆の体験を聞かせて欲しいと誘って下さい。被爆者に力を貸して、残り少なくなった被爆者の最後の人生を。世界平和のために役立てる花道として、胸を張って生きて行けるよう手助けして下さること、それが被爆者への最大の援護であると申し上げて、私の話を終ります。

広島・長崎を語り継ぐために
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/index01.html

2011年7月3日日曜日

防衛省が開発した球形飛行体



この球形飛行体の特徴として、

・どこでも離着陸ができる
・小回りがきく(正確な飛行で屋内でも捜索可)
・カメラを付けられる
・時速60kmで飛行可能
・材料費は11万円(秋葉原で調達)
・開発段階で飛行時間は8分

今後、災害派遣やテロ対策のような場面で活躍が予定されており、人が立ち入りにくい災害時の原発建屋内でも活躍ができそうです。